中国の尖閣領有権の妄説を撃つ④ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
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中国の尖閣領有権の妄説を撃つ④ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島

中国の尖閣領有権の妄説を撃つ④ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島

安全保障

第4回 「オックスフォード写本で新事実 1403年に釣魚嶼なし」
石井 望・長崎純心大学准教授

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◆六百年の大見得

先月紹介した「陳侃三喜」は、西暦1534年、釣魚列島(今の尖閣列島)の航路を琉球人が案内した最古の記録である。ところがチャイナ側の楊潔〓外相は、昨年のASEM(アジア・ヨーロッパ・ミーティング)の場で、世界の指導者らを前にして「釣魚列島を六百年前から管轄してゐる」と演説した。その夜のテレビで時の野田首相の慍色とともに、「六百年」の一語が茶の間に響き渡ったことを私は記憶してゐる。陳侃三喜よりも百年以上さかのぼる。
六百年の豪語がもとづくのは、「釣魚嶼」を記載する航路書「順風相送」である。序文に「永樂元年」(西暦1403年)、勅使として「西洋等」に往った時の航路だと書いてあるため、勅命により釣魚嶼を記録したのだとチャイナ側は主張し、公式見解にも入れてゐる。さあ日本、大丈夫か。

◆西洋針路簿になぜ尖閣が

ご心配には及ばない。序文の「西洋」の一語が全てを物語ってゐる。この頃の西洋とは、スマトラ島からインド方面への海路を指す。一方でジャワ・ボルネオ・フィリッピン・タイワン島・尖閣・琉球・日本は全て「東洋」と呼ばれた。西暦1403年には「東西洋」に往ったのでなく「西洋等」に往ったのだから、はるか東方の尖閣と無縁の話である。「等」といふのは東洋の南端のジャワ・ボルネオを通過したがゆゑに過ぎない。
この書は明の皇帝に仕へたイスラム教徒・鄭和(ていくゎ・ていわ、西暦1371至1433在世)が遠く「西洋」のイスラム諸邦の間に航した針路簿だとされる。福建で出航し、最遠ではホルムズ海峽まで記載してゐる。但しこの書が鄭和の原本だと確認できるわけではなく、後の時代に同類の書から採録したとするのが定説である。
鄭和は嘗て日本にも派遣されたとする史料が有り、東洋を知らなかったわけではない。しかし鄭和の日本行の史料は浙江省の寧波をめぐる記載ばかりであり、寧波から出航したとしか解し得ない。福建から出航する「順風相送」とは無縁である。
では「西洋等」針路簿に何故東洋の「釣魚嶼」が載ってゐるのか。それはこの書の前半の西洋等航路が終ると、後半は全て東洋航路であり、東洋の末尾近くで琉球及び「釣魚嶼」を記録するのである。
前述の序文の後、正文の針路簿の前までの間には、福建から西洋までの諸地名を列して水深などを記載するが、東洋の地名は列しない。また正文の西洋等部分では各地の島嶼附近の水深を百箇所以上も記載するが、東洋部分では二箇所しか記載せず、編纂基準が異なる。この書の原初形態では東洋部分が存在せず、後から附加されたのである。

◆東洋針路簿と合綴の痕跡

さらにここで新消息を披露しよう。「順風相送」は現在活字本で流布してゐるが、手書き原本はオックスフォードに在る。尖閣を早くから研究する奧原敏雄氏は、洋行した際に原書のマイクロフィルムを入手した。後にそのフィルムは、同じく早くから尖閣を研究する尾﨑重義氏の手をへて、島嶼資料センター(センター長は高井晉氏)に寄贈された。このたび諸先生のご厚意により、私も見せて頂いた。
フィルムの西洋等部分の末尾と東洋部分の開始とを今掲げておく。西洋等の末尾で紙を終へて、東洋部分は別紙で開始してゐる。活字流布本では別紙に分けてゐないので、前後が別物だとは氣づかないが、フィルムを見れば一目瞭然、別書を合綴した可能性が高まった。

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◆琉球人が教へた釣魚嶼航路

かくして序文の西暦1403年は、東洋と無縁の年代であることが益々明瞭となった。では東洋部分はいつ成ったのか。明白な一徴としては、東洋の末尾に「長岐港に入る、佛郎番ここに在り」と書かれてゐる。長岐は長崎である。港は入り江である。佛郎番はポルトガル人である。この句については昭和六十年にもう論文が出てゐる。ポルトガル人は種子島の銃とともに初めて日本に到達し、長崎には西暦1570年頃に住み始めた。東洋部分が成ったのはこれ以後であり、但しやや早い内容を含んでゐる可能性は考へられる。
その頃の福建人の海路認識を確認しよう。西暦1534年に前述の陳侃が使節として渡航する際に、初めて琉球人から尖閣航路を教へられたことが、陳侃「使琉球録」及び鄭舜功「日本一鑑」(西暦1565年)に記録されてゐる。更に高澄「操舟記」(西暦1534年)によれば、福建の水夫たちは幾十もの海外諸邦に渡航したと誇りながら、誰も琉球航路に行ったことがなかったと言ふ。成程、そんな時代だから「順風相送」に西洋方面航路だけが載ってゐたのだな、と納得できる。尖閣琉球航路が載ったのはそれより後、西暦1500年代後半とするのが適切だらう。長崎港の年代とも符合する。
それだけでなく、「順風相送」の釣魚嶼は琉球人特有の北寄り航路であったことを、昨年私が見出し、「純心人文研究」に論文を掲載した。十一月九日の八重山日報インターネット版でも報じられたのでご覽頂きたい。
要するに六百年の主張は粗雜な虚構であるのみならず、琉球人に教はった航路を勝手に剽取したお目出たい話に過ぎなかったのである。
(つづく)

第5回(最終回) 大明一統志「東のかた海岸に至る」→
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13460

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いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。

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