中国の尖閣領有権の妄説を撃つ⑤ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
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中国の尖閣領有権の妄説を撃つ⑤ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島

中国の尖閣領有権の妄説を撃つ⑤ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島

安全保障

第5回(最終回) 大明一統志「東のかた海岸に至る」
石井 望 ・長崎純心大学准教授

ibuki08

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◆佐賀講演で新見解

明の勅撰地理書「大明一統志」には、福建各地の領土を「東のかた海岸に至る」と繰り返し規定してゐる。各地の官製地誌諸本も同じである。海岸の外の尖閣は領土外となる。あたり前の史料なのだが、尖閣論議の中で言及されたことは無かった。歴史研究者が尖閣を避けてきたからだ。
ところがチャイナ側は明の「籌海圖編」といふ海防書に載る「釣魚嶼」を以て、海防の管轄内だと主張する。手間のかからない主張だが、否定するにはその時代の諸史料を以て海防の到達地を逐一明らかにせねばならない。私はあれこれと史料を調べた結果、福建の海防圏は兵力最弱時に海岸まで、最強時でも沿岸列島線までと分かった。これぞ歴史的第一列島線である。尖閣は三百キロの彼方に在る。
「籌海圖編」は下半分に海岸の陣地を列し、上半分はただ島嶼を列する。上半分に陣地が無いのは海防外なるがゆゑであり、まさにその時代の海防線の内外を描いた書である。丁度チェス盤のやうなもので、敵地の最後方(上端)に尖閣があるに過ぎない。
以上の内容は昨年九月三十日に日本會議佐賀で講演し、十月五日佐賀新聞(印刷版)及び十月六日八重山日報(電子版あり)で報じられた。

ibuki8・sikozennsyo

◆尖閣でなく福建の領土問題

「釣魚島史料は悲劇だ、あまりにも悲劇だ。」香港などのインターネットに出沒する或るブログの達人が、そんな嘆きを投稿してゐる。なぜなら一つの例外を除き、釣魚嶼は全て隣邦との間の渉外的史料にばかり記載され、チャイナの内で自己完結する史料が無い。例へば第三囘で紹介した陳侃「使琉球録」以下、歴代使節の記録は全て隣邦琉球への渡航途中で釣魚嶼を記録する。第四囘で紹介した「順風相送」も、琉球航路の記載である。佐賀で話した「籌海圖編」も、隣邦日本から渡ってくる倭寇(但し中身はチャイナ人が九割)に備へる海防書である。後の清の「臺海使槎録」「重纂福建通志」などもまた「海防」の卷の末尾で釣魚臺を載せる。
清の後半になると「全臺圖説」「葛瑪蘭廳志」などタイワン島の地誌に釣魚臺が載るやうになる。チャイナ側はそれを以て行政域に編入したのだと主張する。ところがどの地誌の釣魚臺も「臺海使槎録」の抄録ばかりで、情報源は矢張り海防である。しかもそれが地誌中の領土外の部分に記載されてゐたといふ笑ひ話は、昨年十一月二十六日から十二月一日まで、八重山日報の連載「馬英九閣下…」をご一閲頂きたい(電子版あり)。
どれもこれも自己完結できないのは、隣邦との間の無主地なるが故である。そもそも帆船の時代に外洋を航行するには季節風を必要とした。福建から琉球へは夏に渡航し、琉球から福建へは季冬初春の間に渡航する。かりに釣魚列島まで領土内として自己完結したければ、夏に福建から航行し、列島東端の赤尾嶼(大正島)に至って半年間停泊し、冬の季節風を待って福建に戻らねばならない。絶海の無人島でそんなことは不可能且つ不必要であった。だから帆船時代には領土になり得ず、常に琉球航路の通過地に過ぎなかったのである。
ならば「籌海圖編」などの海防書に載ったのは何故か。佐賀で講演した通り、福建の海防域は大陸沿岸の列島線までで終る。海防外の釣魚嶼は、琉球航路書から取った情報か、もしくは陳侃のやうに琉球の水先人から得た情報と推測せざるを得ない。海防のため特別に赤尾嶼まで巡邏したといふのは、歴史を持たぬ今の彼らの張る虚勢に過ぎない。
逆に言へば、日本は尖閣の西方はるか彼方でチャイナが自己完結してゐた史料だけを論ずれば良く、そもそも尖閣を論ずべきでない。尖閣に領土問題が存在しないことは歴史が物語ってゐる。尖閣でなく福建の領土問題なのである。

◆孫崎享氏が高く評した史料

さて上述の唯一の例外とは、光緒十九年(西暦1893年)、西太后が大臣の盛宣懷に釣魚臺を下賜した慈諭(太后の諭告)である。隣邦と無縁であり、且つ日本が領有する直前なので、かなり有効に見える。昨年からマスコミに頻々と出る孫崎享氏も絶贊して曰く、
「文献は圧倒的に中国に属していたことを示している」と(平成二十三年、ちくま新書「日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土」、第六十四頁)。
ところが何のことは無い。慈諭中の官職「太常寺卿」に盛宣懷が就いたのは光緒二十二年(西暦1896年)なのである。慈諭の署する光緒十九年には、盛宣懷はまだ北京の高官ですらない。流石に近年はチャイナ側もこの贋品を公式主張に入れなくなった。
孫崎氏はきっと「瑣末事よりも本質が大切だ」などと反駁するだらうが、チャイナ側の歴史的主張は全て誤ってをり、本連載で述べたのは一端に過ぎない。日本領有までの長い歴史でチャイナはゼロなのだから、百を乘じてもゼロ、カイロ宣言を持ち出してもゼロ、極めて明朗に連載を終へることとしよう。

ibuki8・gizoubun
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いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。

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