魂の外交官 重光葵に帰れ―吉田ドクトリンから重光ドクトリンへ(福冨健一氏)
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魂の外交官 重光葵に帰れ―吉田ドクトリンから重光ドクトリンへ(福冨健一氏)

魂の外交官 重光葵に帰れ―吉田ドクトリンから重光ドクトリンへ(福冨健一氏)

外交

魂の外交官 重光葵に帰れ―吉田ドクトリンから重光ドクトリンへ

作家・歴史資料収集家 福冨健一氏に聞く
(『日本の息吹』平成23年12月号掲載)

●大御心を体した外交官

―なぜいま重光葵なのでしょうか。
福冨
教科書で戦後史のはじめに掲載されていたミズーリ艦上での降伏文書調印式の写真は、皆さん見たことがあると思います。あのとき、サインしているのが当時、誰もが嫌がる日本全権を引き受けた重光葵です。
昭和20年9月2日、調印式の日、重光はこう詠んでいます。

ながらへて甲斐ある命今日はしもしこの御楯と我ならましを
願くは御国の末の栄え行き吾名さげすむ人の多きを

また、調印式前には伊勢神宮に参拝し、斎戒沐浴して心を込めて祈っています。

我国を造りましたる大神に心をこめて我は祈りぬ

重光は、幼少より父の薫陶によって沐浴と教育勅語の朗読を日課としていましたが、後年には、書斎に掲げた日章旗を毎朝礼拝していました。

大君に答へまつらむ真心を捧げて今朝も御旗拝みぬ

これこそ日本人の本来の姿です。まさに大御心を体した外交官だったのです。

―上海の爆弾事件のときの姿も立派でした。
福冨
昭和7年4月29日、上海で行なわれた天長節の式典に爆弾が投げられて、駐華大使として参列していた重光は一命は取り留めたものの片足を失う重傷を負うわけです。

当時は、国歌斉唱は2回続けて歌われていました。その2回目のときに、爆弾が2つ投げ込まれた。重光は、「爆弾が投げられたのは分かっていたが、国歌斉唱の最中に動くのは不敬であると考え動かなかった」と日記に書いていますが、動かなかったのは、重光だけではなかった。壇上にいた白川義則司令官、野村吉三郎司令長官(後の駐米大使)、植田謙吉師団長など、誰も逃げなかったのです。これは想像するだにすさまじい話だと思います。当時の日本人は、国家を背負って立つ気概、上に立つ者の覚悟が違ったんですね。

重光葵記念館(*)に重光の義足が展示されていますが、墨で「恩賜」と記されています。陛下から賜ったこの義足をつけるたびに皇恩に想いをいたしていたのではないでしょうか。

●「太平洋戦争史観」から「大東亜戦争史観」へ

―マッカーサーとの対決も見事です。

福冨
マッカーサーは当初、日本に軍政を敷こうとしました。それを重光が「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが、日本には政府が存在する」として、日本での軍政施行は、ポツダム宣言違反だと猛抗議して、それを止めさせるわけです。もし軍政が敷かれていれば、日本の文化は根底から破壊されてしまったでしょう。

―今年12月8日は、大東亜戦争開戦から満70年の日です。重光は、文字通り大東亜戦争を貫徹しようとした外交官ともいえそうですね。
福冨
重光は、三国同盟に反対し日米開戦にも反対しました。しかし、いったん戦端が開かれた後は勝つために尽力し、そして途中で敗戦は避けられないとみてとって、この戦争の大義を後世に示す為に、昭和18年11月、東京にアジア各国の錚々たる代表を招き、大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を起草し、その採択を実現しています。
重光はその意義について、「敵側の弱点の重大なるものは、アジアに対する差別概念である。チャーチルがなしたる大西洋憲章をインドに適用せずとのアジア差別概念を逆用し、我が大東亜政策の正義性を発揮せねばならぬ。我が大東亜政策が、アジアの解放に立脚しこの地域における民族国家を政治的に自主平等の基礎のもとに」導かなければならないと語っています。
連合国の大西洋憲章は、人種平等を謳ってはいたが、それはあくまで白人間の平等であって、植民地の有色人種には適用されないものでした。そこで、日本は真の人種平等の実現を理想に掲げたのです。英国の歴史家、トインビーは、「第二次大戦において、日本人は戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である」と日本を賛辞しています。

―重光は、東京裁判で、いわゆる「A級戦犯」として禁固7年の刑を受けるわけですが、刑を終えて、鳩山内閣で外務大臣に就任します。このことは、「A級戦犯」を日本国民が認めていなかったことの何よりの証左です。
福冨
戦後は、米占領軍によって与えられた「太平洋戦争史観」とソ連・中共による「帝国主義戦争史観」「抗日戦争史観」が幅を利かせますが、日本人が戦ったのはあくまで「大東亜戦争」です。我々は「大東亜戦争史観」を取り戻さねばならない。重光の軌跡を学ぶと、おのずとその大東亜戦争史観が浮かび上がってきます。その意味でも重光は戦前戦中にかけて日本の政治の第一線を歩き続けた稀有な政治家だったといえるでしょう。
吉田ドクトリンを葬送しよう戦後の重光の仕事として特記すべきは、昭和30年8月に行なわれた「重光・ダレス会談」です。日米安保条約の改定について、重光は、NATO諸国のような対等な日米同盟を主張しました。重光は、吉田茂と違い、再軍備を国家存亡の問題と捉えていました。

―改めて吉田外交と重光外交の違いについて。
福冨
「降伏後における米国の初期の対日方針」は、「日本国が再びアメリカの脅威となり、または世界の平和と安全の脅威とならざること」を目指しましたが、その最も肝要な点は、軍隊と神道を排除したことです。つまり、日本から国家の本質的要素である軍隊と宗教を奪った。そうすれば日本は弱体化して二度と敵にはならないだろうと。これに吉田茂は従ってしまった。
軽武装、経済優先のいわゆる吉田ドクトリンですね。それに対して、重光は、「自らの使命は、吉田の残した仕事の後始末をすることである」として、憲法改正、再軍備をやろうとしました。
重光には国家の本質というものが、深く理解されていたのだと思います。
今年4月、英国のウィリアム王子の婚礼が英国国教会のウェストミンスター寺院で行なわれ、王子は近衛歩兵第4連隊の名誉大佐の礼服姿でした。そして王子の所属する空軍の戦闘機がバッキンガム宮殿の上空を飛んでお祝いしました。宗教と軍隊と王室が一体なのです。そこに国家の高貴さや美徳が現れるのです。
フランスの哲学者トクヴィルは、人間の自由について「自由であろうとすれば神を信仰しなければならない」と言っています。神のない自由は隷従の自由であると。重光も似たことを言っています。イギリスがなぜ、デモクラシーがしっかりしていて戦争に強いのか、それは、「英国の王室が無言の大なる感化力を持っているからだ」と。王室の権威が政治や外交や人々の社会生活を感化しているというのです。重光にはそういう感性がありましたが、吉田茂にはそれは欠けていたといわざるをえないと思います。

政治学者の高坂正堯は、『宰相吉田茂論』で、経済優先の吉田ドクトリンに対し、「しかし、真にそうであろうか。われわれは精神的な真空を持っていないだろうか」と指摘しています。
「精神的な真空」に陥ってしまっている現下日本にあって、今こそ、吉田ドクトリンから重光ドクトリンへの転換を!と強く訴えたいですね。(文中敬称略)

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ふくとみ けんいち
昭和29年栃木県生まれ。東京理科大卒、
ハイデルベルク大学留学、ニューポート大学大学院中退。
自民党政務調査会副部長。一貫して有事法制を研究。
著書に『東条英機天皇を守り通した男』
『南十字星に抱かれて凛として死んだBC級戦犯の「遺言」』など。
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