【正論】自民「大テント党」瓦解のその先 谷口智彦 (令和7年7月24日 産経新聞より)
【正論】自民「大テント党」瓦解のその先 谷口智彦
(本稿は、令和7年7月24日『産経新聞』に掲載されたものを許可を得て転載したものです。)
自由民主党は英語なら大テント党とでも呼ぶべき大きな幕屋であって、中では何でもござれだった。右であれ多少の左であれ。
ただし天幕を支持したのは保守の柱一本で、近年は故安倍晋三元首相が両の腕(かいな)でこれを支えた。
≪立党70年「終わりの始まり」≫
その頃テントは高く上がって世界からよく見えたと思ったら、安倍氏がいなくなった。柱からは針金様のステーが何本も延び地面に刺さっていたけれど、これは岸田文雄前首相が根こそぎ外した。
幕屋はそれでも倒れないと思ったのだとしたら、その短見浅慮をいかにせん。事実われわれは7月20日、参院選挙の開票とともに、天幕は吹き飛び幕屋が倒れる音を確かに聞いたのである。
立党はちょうど70年前だ。ソ連の影響力工作に学者や文化人が手もなくやられる中、自民党だけは反共を掲げた。日米安保体制堅持を言うのが当時いかほど不体裁であろうとも、岸信介の奮闘よろしきを得て確乎(かっこ)不抜を通した。
支配政党が変わらない一点で日本民主主義を半人前扱いする者があれば、自民党以外の選択肢はなかったことを教えてやるとよい。
私有財産制と日米安保の護持にさえ誓いを立てるなら後は委細構わず、自民党は大テント党になった。高度成長を背に福祉拡充を急いだ同党は左翼に翼を延ばし、政治的な対立それ自体を包摂・解消せんばかりの勢いだった。
全政党が福祉充実を主張し、戦争にまつわる怖そうな話は当面みんなで箱にしまっておくことにした時期が、かくして生じた。
表向きはさておき、全国民総自民党員だったようなものだ。共産党独裁の隣国が超大国化し、人類史に超絶する軍拡を続けて世界秩序を振り回すだろうなどと、誰ひとり思わない無邪気な頃だった。
箱の封印を開いて自尊自立と自衛の道に日本を導こうとした安倍氏の同志たちは、これからという時に追放の憂き目にあう。しかして自民党の、終わりの始まりだ。
≪幕屋が吹き飛んだあと≫
左右の対立軸は、幕屋が吹き飛んだ今、いっそう尖鋭(せんえい)に見える。
米国などと違って、政府の規模や介入の深浅は、本邦における左翼右翼の別とあまり関係がない。福祉支出額が米国の軍事予算に匹敵する日本のような国で、政府を縮めろ、小さくしろと唱える立論はもとより成り立たない。
蓋(けだ)し日本でいう保守主義とはロイヤリストでありモナーキストであって、あるいはトラディショナリストであると、このごろ筆者はそう説明することにしている。
最初の2語は、細かい語義の差はさておくとして、どちらも皇統の存続を重んじる考えだ。
天皇のご一家は、人類史に稀(まれ)な継続を保たれて今日に至る。とかく長く続いたものには、その背後に無数で無名の人々の献身があるから尊いのだと、伝統重視のトラディショナリストなら考える。
途方もなく長い時間をかけて守ってきた神社仏閣や伝統、仕来たりが、日本には恐らくとても多い。別名をツーリズムと称す粗暴な力が突如現れそれらを踏みにじるのは正視に堪えないと、トラディショナリストは思う。そしてこの感情を「日本人ファースト」というやや露悪的措辞を思いついた参政党がうまくさらって行った。
左翼は往時と違って資本制を否定しない。日米安保も渋々ではあれ受け入れる。しかし彼らに今なおあるのは日の丸を見て嫌悪する神経的反射であり、「君が代」を歌うと自分の中の何かが壊れてしまうかに思う感性の偏頗(へんぱ)である。
≪明確に針路示す政治家は≫
自分が日本人であることは冷めた目で突き放すがよく、ゆめ、そのことを誇りに思うなどしてはならないと思ううち、およそナショナルなものの一切合切が、彼らにおいては憎悪の目的物となる。
移民はゆえに、左翼にとってむしろ歓迎の対象だ。日本的価値を薄めるか混乱させ、ありがたくないものにしてくれると期待してである。おっつけ彼らは、日本の土地で出生した者には自動的に日本国籍を与えろと言い出すだろう。
左翼が昨今とかく反イスラエルである事情にも察しがつく。自国の存立を懸け周囲の敵すべてを無力化すべく懸命の武装国家など、ナショナルな上にもナショナルな存在で嫌悪感を催すのであろう。
一方で軍備増強を急ぐ中国に対し、左翼は概しておとなしい。真剣に対峙(たいじ)しようとすると、自身をナショナルな存在に変えねばならない。それを嫌うからだと見る。
いま「左翼」と称してきた勢力は、大テント党・自民党にも元々かなりいた。今次選挙は比例代表に回った保守派の多くを失職させ、党内左翼に力を与えた形だ。
自民党から保守主義を奉じる人々が去ったか去ろうとしている今、天幕のないかつての大テント党はどこに行こうというのか。
往昔、日本政治にあったかもしれない定常状態はもうない。事態はつとに流動している。「ここに行くのだ」と明確に声を挙げる政治家が一人また一人と現れない限り、有権者の不満は鬱積する。何につけ鬱屈は、不穏を招く。