中国の尖閣領有権の妄説を撃つ⑤ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第5回(最終回) 大明一統志「東のかた海岸に至る」
石井 望 ・長崎純心大学准教授
◆佐賀講演で新見解
明の勅撰地理書「大明一統志」には、福建各地の領土を「東のかた海岸に至る」と繰り返し規定してゐる。各地の官製地誌諸本も同じである。海岸の外の尖閣は領土外となる。あたり前の史料なのだが、尖閣論議の中で言及されたことは無かった。歴史研究者が尖閣を避けてきたからだ。
ところがチャイナ側は明の「籌海圖編」といふ海防書に載る「釣魚嶼」を以て、海防の管轄内だと主張する。手間のかからない主張だが、否定するにはその時代の諸史料を以て海防の到達地を逐一明らかにせねばならない。私はあれこれと史料を調べた結果、福建の海防圏は兵力最弱時に海岸まで、最強時でも沿岸列島線までと分かった。これぞ歴史的第一列島線である。尖閣は三百キロの彼方に在る。
「籌海圖編」は下半分に海岸の陣地を列し、上半分はただ島嶼を列する。上半分に陣地が無いのは海防外なるがゆゑであり、まさにその時代の海防線の内外を描いた書である。丁度チェス盤のやうなもので、敵地の最後方(上端)に尖閣があるに過ぎない。
以上の内容は昨年九月三十日に日本會議佐賀で講演し、十月五日佐賀新聞(印刷版)及び十月六日八重山日報(電子版あり)で報じられた。
◆尖閣でなく福建の領土問題
「釣魚島史料は悲劇だ、あまりにも悲劇だ。」香港などのインターネットに出沒する或るブログの達人が、そんな嘆きを投稿してゐる。なぜなら一つの例外を除き、釣魚嶼は全て隣邦との間の渉外的史料にばかり記載され、チャイナの内で自己完結する史料が無い。例へば第三囘で紹介した陳侃「使琉球録」以下、歴代使節の記録は全て隣邦琉球への渡航途中で釣魚嶼を記録する。第四囘で紹介した「順風相送」も、琉球航路の記載である。佐賀で話した「籌海圖編」も、隣邦日本から渡ってくる倭寇(但し中身はチャイナ人が九割)に備へる海防書である。後の清の「臺海使槎録」「重纂福建通志」などもまた「海防」の卷の末尾で釣魚臺を載せる。
清の後半になると「全臺圖説」「葛瑪蘭廳志」などタイワン島の地誌に釣魚臺が載るやうになる。チャイナ側はそれを以て行政域に編入したのだと主張する。ところがどの地誌の釣魚臺も「臺海使槎録」の抄録ばかりで、情報源は矢張り海防である。しかもそれが地誌中の領土外の部分に記載されてゐたといふ笑ひ話は、昨年十一月二十六日から十二月一日まで、八重山日報の連載「馬英九閣下…」をご一閲頂きたい(電子版あり)。
どれもこれも自己完結できないのは、隣邦との間の無主地なるが故である。そもそも帆船の時代に外洋を航行するには季節風を必要とした。福建から琉球へは夏に渡航し、琉球から福建へは季冬初春の間に渡航する。かりに釣魚列島まで領土内として自己完結したければ、夏に福建から航行し、列島東端の赤尾嶼(大正島)に至って半年間停泊し、冬の季節風を待って福建に戻らねばならない。絶海の無人島でそんなことは不可能且つ不必要であった。だから帆船時代には領土になり得ず、常に琉球航路の通過地に過ぎなかったのである。
ならば「籌海圖編」などの海防書に載ったのは何故か。佐賀で講演した通り、福建の海防域は大陸沿岸の列島線までで終る。海防外の釣魚嶼は、琉球航路書から取った情報か、もしくは陳侃のやうに琉球の水先人から得た情報と推測せざるを得ない。海防のため特別に赤尾嶼まで巡邏したといふのは、歴史を持たぬ今の彼らの張る虚勢に過ぎない。
逆に言へば、日本は尖閣の西方はるか彼方でチャイナが自己完結してゐた史料だけを論ずれば良く、そもそも尖閣を論ずべきでない。尖閣に領土問題が存在しないことは歴史が物語ってゐる。尖閣でなく福建の領土問題なのである。
◆孫崎享氏が高く評した史料
さて上述の唯一の例外とは、光緒十九年(西暦1893年)、西太后が大臣の盛宣懷に釣魚臺を下賜した慈諭(太后の諭告)である。隣邦と無縁であり、且つ日本が領有する直前なので、かなり有効に見える。昨年からマスコミに頻々と出る孫崎享氏も絶贊して曰く、
「文献は圧倒的に中国に属していたことを示している」と(平成二十三年、ちくま新書「日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土」、第六十四頁)。
ところが何のことは無い。慈諭中の官職「太常寺卿」に盛宣懷が就いたのは光緒二十二年(西暦1896年)なのである。慈諭の署する光緒十九年には、盛宣懷はまだ北京の高官ですらない。流石に近年はチャイナ側もこの贋品を公式主張に入れなくなった。
孫崎氏はきっと「瑣末事よりも本質が大切だ」などと反駁するだらうが、チャイナ側の歴史的主張は全て誤ってをり、本連載で述べたのは一端に過ぎない。日本領有までの長い歴史でチャイナはゼロなのだから、百を乘じてもゼロ、カイロ宣言を持ち出してもゼロ、極めて明朗に連載を終へることとしよう。
—————
いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
中国の尖閣領有権の妄説を撃つ④ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第4回 「オックスフォード写本で新事実 1403年に釣魚嶼なし」
石井 望・長崎純心大学准教授
◆六百年の大見得
先月紹介した「陳侃三喜」は、西暦1534年、釣魚列島(今の尖閣列島)の航路を琉球人が案内した最古の記録である。ところがチャイナ側の楊潔〓外相は、昨年のASEM(アジア・ヨーロッパ・ミーティング)の場で、世界の指導者らを前にして「釣魚列島を六百年前から管轄してゐる」と演説した。その夜のテレビで時の野田首相の慍色とともに、「六百年」の一語が茶の間に響き渡ったことを私は記憶してゐる。陳侃三喜よりも百年以上さかのぼる。
六百年の豪語がもとづくのは、「釣魚嶼」を記載する航路書「順風相送」である。序文に「永樂元年」(西暦1403年)、勅使として「西洋等」に往った時の航路だと書いてあるため、勅命により釣魚嶼を記録したのだとチャイナ側は主張し、公式見解にも入れてゐる。さあ日本、大丈夫か。
◆西洋針路簿になぜ尖閣が
ご心配には及ばない。序文の「西洋」の一語が全てを物語ってゐる。この頃の西洋とは、スマトラ島からインド方面への海路を指す。一方でジャワ・ボルネオ・フィリッピン・タイワン島・尖閣・琉球・日本は全て「東洋」と呼ばれた。西暦1403年には「東西洋」に往ったのでなく「西洋等」に往ったのだから、はるか東方の尖閣と無縁の話である。「等」といふのは東洋の南端のジャワ・ボルネオを通過したがゆゑに過ぎない。
この書は明の皇帝に仕へたイスラム教徒・鄭和(ていくゎ・ていわ、西暦1371至1433在世)が遠く「西洋」のイスラム諸邦の間に航した針路簿だとされる。福建で出航し、最遠ではホルムズ海峽まで記載してゐる。但しこの書が鄭和の原本だと確認できるわけではなく、後の時代に同類の書から採録したとするのが定説である。
鄭和は嘗て日本にも派遣されたとする史料が有り、東洋を知らなかったわけではない。しかし鄭和の日本行の史料は浙江省の寧波をめぐる記載ばかりであり、寧波から出航したとしか解し得ない。福建から出航する「順風相送」とは無縁である。
では「西洋等」針路簿に何故東洋の「釣魚嶼」が載ってゐるのか。それはこの書の前半の西洋等航路が終ると、後半は全て東洋航路であり、東洋の末尾近くで琉球及び「釣魚嶼」を記録するのである。
前述の序文の後、正文の針路簿の前までの間には、福建から西洋までの諸地名を列して水深などを記載するが、東洋の地名は列しない。また正文の西洋等部分では各地の島嶼附近の水深を百箇所以上も記載するが、東洋部分では二箇所しか記載せず、編纂基準が異なる。この書の原初形態では東洋部分が存在せず、後から附加されたのである。
◆東洋針路簿と合綴の痕跡
さらにここで新消息を披露しよう。「順風相送」は現在活字本で流布してゐるが、手書き原本はオックスフォードに在る。尖閣を早くから研究する奧原敏雄氏は、洋行した際に原書のマイクロフィルムを入手した。後にそのフィルムは、同じく早くから尖閣を研究する尾﨑重義氏の手をへて、島嶼資料センター(センター長は高井晉氏)に寄贈された。このたび諸先生のご厚意により、私も見せて頂いた。
フィルムの西洋等部分の末尾と東洋部分の開始とを今掲げておく。西洋等の末尾で紙を終へて、東洋部分は別紙で開始してゐる。活字流布本では別紙に分けてゐないので、前後が別物だとは氣づかないが、フィルムを見れば一目瞭然、別書を合綴した可能性が高まった。
かくして序文の西暦1403年は、東洋と無縁の年代であることが益々明瞭となった。では東洋部分はいつ成ったのか。明白な一徴としては、東洋の末尾に「長岐港に入る、佛郎番ここに在り」と書かれてゐる。長岐は長崎である。港は入り江である。佛郎番はポルトガル人である。この句については昭和六十年にもう論文が出てゐる。ポルトガル人は種子島の銃とともに初めて日本に到達し、長崎には西暦1570年頃に住み始めた。東洋部分が成ったのはこれ以後であり、但しやや早い内容を含んでゐる可能性は考へられる。
その頃の福建人の海路認識を確認しよう。西暦1534年に前述の陳侃が使節として渡航する際に、初めて琉球人から尖閣航路を教へられたことが、陳侃「使琉球録」及び鄭舜功「日本一鑑」(西暦1565年)に記録されてゐる。更に高澄「操舟記」(西暦1534年)によれば、福建の水夫たちは幾十もの海外諸邦に渡航したと誇りながら、誰も琉球航路に行ったことがなかったと言ふ。成程、そんな時代だから「順風相送」に西洋方面航路だけが載ってゐたのだな、と納得できる。尖閣琉球航路が載ったのはそれより後、西暦1500年代後半とするのが適切だらう。長崎港の年代とも符合する。
それだけでなく、「順風相送」の釣魚嶼は琉球人特有の北寄り航路であったことを、昨年私が見出し、「純心人文研究」に論文を掲載した。十一月九日の八重山日報インターネット版でも報じられたのでご覽頂きたい。
要するに六百年の主張は粗雜な虚構であるのみならず、琉球人に教はった航路を勝手に剽取したお目出たい話に過ぎなかったのである。
(つづく)
第5回(最終回) 大明一統志「東のかた海岸に至る」→
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13460
—————
いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
中国の尖閣領有権の妄説を撃つ③ ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第3回 「尖閣480年史は「陳侃三喜」から始まった」
石井 望・長崎純心大学准教授
近代以前の遠い昔、琉球人は尖閣列島を熟知してゐた。最古の記録が明の『使琉球録』に載る「陳侃三喜)」である。
明の使節陳侃は、福州から出航の前年、未知の琉球への渡航を畏れてゐた。そこに琉球の朝貢貿易船が入港したので、情報を得られると喜んだのが一喜。次に琉球から迎接船が入港したので、先導してもらへると喜んだのが二喜。次に迎接船が羅針盤役らを派遣して陳侃と同船させ、琉球までの操舵を申し出たのが三喜である。明くる嘉靖十三(西暦1534)年出航した使節船は、琉球の役人の操舵のもと陰暦五月十日に尖閣列島の「釣魚嶼」(魚釣島)を通過する。尖閣は最初から琉球王が公式に外邦の客を導く航路として記録された。
この日から尖閣は有史の時代に這入る。歴代史料では尖閣の西にチャイナの界線が記録され、同じく東に琉球の界線が記録される。二つの界線の間の尖閣列島は、東西どちらから見ても外側の無主地であった。無主地ながら、琉球人が針路を司る航路上の要地でもあった。海洋的琉球文化圏だったことは明白である。しかしチャイナ側はつねに陳侃が釣魚嶼を記録したことだけを強調して、琉球人が針路を司ったことを無視しつづけてゐる。
明治二十八(西暦1895)年一月十四日、日本は尖閣を領土に編入した。石垣市がこれを「尖閣諸島開拓の日」に定めたのは多とするに足る。しかし四百八十年になんなんとする尖閣史上では、最古の五月十日も忘れてはならない。この大切な歴史を世間では話題にせず、逆にチャイナ側の虚構に利用されてゐる現状は憂慮に値する。
日本の保守論壇には、明治以前の漢文史料で我が方が不利だとの誤解が有る。しかし原文をよくみれば、チャイナ側主張は全て虚構に過ぎない。要注意の一つは「釣魚嶼」といふ漢文名である。所謂チャイナ名ではない。命名者の記録は無いが、最初に琉球人の案内のもとで島名が記録された以上、琉球人が命名した可能性が高い。今これをチャイナ名と呼ぶのは、琉球の先人の功績をなみすることに外ならない。
漢文は東アジア共通の文語であって、西洋のラテン語と同じである。ラテン語をイタリア語と呼ばないのと同じやうに、古代から漢文を書いてゐた日本人は、チャイナ語を書かなかった。漢文名をチャイナ名と呼ぶことは、尖閣史のみならず日本史及びその一部としての琉球史を否定するに等しい。日本は領土編入とともに尖閣といふ現代名を定めたが、チャイナは尖閣を領有しなかったから命名もしてゐない。
◆歴史こそ最後の決め手
尖閣漢文研究について、世間では「どうせチャイナは侵犯をやめないか
ら、歴史で勝っても無駄だ」とか「細かなことよりも大局を論ずべきだ」などと冷ややかに評する人が多い。事の重大性を理解しない評である。
平成二十二年の冬頃、漁船衝突事件からしばらく後に、チャイナ側がしばし息をひそめて沈黙したことをご記憶だらうか。原因は、稀土類禁輸やフジタ社員監禁などの横暴を世界が支持しなかったからである。日本側に世界の同情が集まり、保守論壇には「我々は負けて勝った」との評も出た。同情を失って焦るチャイナの顔色を見て、香港の保釣運動家までも出航を見合はせたことが、現地で小さく報道された。
ところが昨年後半から、世界(特に西洋)の同情はチャイナに集まってゐると聞く。歴史上で尖閣を支配したチャイナと、現代公法の論理に固執する日本。そんな誤った形象が西洋の論壇にひろまったことが原因らしい。日本政府が尖閣を購入したことが原因ではない。
いま歴史が勝負を左右しようとしてゐる。歴史の虚構が逐一曝露されて世界の同情を失なへば、チャイナは焦って再び沈黙するだらう。彼らの横暴をやめさせるには、尖閣四百八十年史の正義を明らかにするのが最善手であり、急がないと日本は負ける。
◆琉球を主人とする記念式典の開催を
きたる平成二十六年は尖閣有史四百八十周年の記念すべき年である。那覇や石垣などで記念式典を行なふことを提言したい。そこには四つの意義がある。第一に、尖閣古史は文化的に琉球のものだと世界に宣言すること。第二に、最初に記録された釣魚嶼がチャイナ名ではないと世界に知らしめること。第三に、歴史で日本が不利だとの印象を一掃すること。第四に、尖閣を政治的色彩から脱せしめ、誰にとってもあたり前の歴史とすること。
陰暦五月十日は陽暦上で毎年不定期となる。行政上の都合も有らうから、陽暦五月十日で記念するのも次善策だらう。毎年が難しければ、四百八十周年の一度だけでも良い。
但し記念日の前提として歴史に忠なるを要する。「日中友好」などを合言葉に記念日を無原則に利用する陰謀には警戒せねばならない。記念日名としては「尖閣三喜記念日」もしくは「釣魚嶼みちびきの日」を提案したい。制定主旨には「無主地にして琉球文化圏だった」と明記することが必須である。この原則を貫徹しないと、チャイナ側の勢力が記念行事に滲透してくることとならう。それどころか、チャイナ側に先に記念日とされて仕舞ふ虞れもある。善は急げ。地元を中心としてみんなで考へたい。(つづく)
第4回 「オックスフォード写本で新事実 1403年に釣魚嶼なし」
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13455
—————
いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
中国の尖閣領有権の妄説を撃つ② ―釣魚島*史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第2回 「東沙山を過ぐれば是れ●山の尽くる処」 (※●…門に虫=びん)
石井 望・長崎純心大学准教授
◆新聞報道と反駁
昨年(平成二十四年)七月十七日、『産經新聞』第一面に尖閣列島の漢文史料の報道が出た。題して曰く「『明代から領土』中国の主張崩壊、明、上奏文、『尖閣は琉球』」と。明から琉球に派遣された勅任使節郭汝霖の『石泉山房文集』所載の上奏文に、
琉球境に渉る、界地は赤嶼と名づけらる。
と述べることが記事の中心であった。使節船が西の福建から東に航行して琉球の領域に至り、琉球領域の分界地は赤嶼(大正島)と呼ばれる、との意である。
この記事にはチャイナ側から反駁が次々に出た。反駁者の一人劉江永氏は、日本の朝日新聞にも時々取り上げられる人物だが、「渉るだけでは琉球境にまだ至ってゐないから、赤嶼はチャイナ領土だ」と主張した。
それから半年後の今年一月二十一日『讀賣新聞』夕刊で報道されたのが、尖閣のはるか西側までで明の領域が終ることを示す『皇明實録』の記録であり、先月すでに紹介した。しかし昨年七月と異なってチャイナ側から全く反駁が出ず、無視された。二つの新聞の流通量の大差を彼らが知らぬ筈は無い。無視したわけは、『産經新聞』報道が尖閣の東側の史料であり、『讀賣新聞』報道は尖閣の西側の史料である。尖閣の西側でチャイナ領域が終ると、尖閣が無主地だったことが分かってしまひ、困るのである。
一方で尖閣の東側を議論すれば、チャイナにも一定の理が有って議論が成立してゐるかの如くに見えてしまふ。それが『産經新聞』にだけ反駁した目的であらう。そもそも尖閣の東側は琉球の領土線なのだからチャイナと無縁の話であり、我々はまともに議論に取り合ってはならない。
◆尖閣の西方の史料
七月の『産經新聞』報道では、東側で誤解を招かぬやう西側の史料についても同時に取り上げられた。別の勅任使節汪楫の漢詩集『觀海集』である。その原文に曰く、
東沙山を過ぐれば是れ●山の盡くる處(福建の終り)なり。 (※●…門に虫=びん)
と。東沙山は今の馬祖列島中の一島であり、尖閣の西側約三百キロもの距離にある。汪楫の認識するチャイナの終りは、尖閣のはるか西なのである。この重要史料について、チャイナ側は全く反駁せず無視した。今年の『讀賣新聞』報道を無視したのと同じである。
汪楫はまたその著『使琉球雜録』で、尖閣の東の海上祭祀に於ける「中外の界」を耳にしたと記録してゐる。チャイナ側主張では「中外」とはチャイナと外との間の分界線であって、尖閣の東までチャイナ領土だと解する。しかし東沙山までがチャイナだと汪楫本人が認識してゐるのだから、その主張は成立しない。
中外とは内外であり、ここで正しくは琉球の内外を指す。なぜならこの中外界の位置は、上述の赤嶼附近の琉球の領土線とほぼ一致するからである。
歴代の尖閣史料の中には、琉球人の道教的風水思想を示すものがある。その一つが清の徐葆光の詩句「中山の大宅、中央に居す」である。中山とは那覇を指し、琉球を中とする風水思想を表現したものである。されば尖閣の東側で汪楫が耳にした道教的「中外の界」も、琉球を中とする可能性が極めて高く、チャイナと無縁の話である。
後のチャイナ人はこの「中外」の西を中とし、東(琉球)が外だと解した。中華思想である。チャイナ領土のはるかに外での話ではあるが、方向性として「中華」だけを「中」としてこの世界が構成されるといふ考へ方である。
そもそも黄河文明は後漢の中頃までであり、以後チャイナ地域は大印度文明圏に隷屬する一小文明となった。そして唐末に日本が遣唐使を停止して以後は中華思想の時代となる。
虚構の中華思想に於いては、チャイナ地域を支配する帝邦が全世界を統治するのが原則であり、中華からの遠近が即ち文明度の高低だといふ理屈になる。しかし現場では他邦との中間に無主地が存在し、遠近の基準はあて嵌らない。無主地をはさんでその東西二側に各一個の文明が存在するといふのは中華思想の基準外である。琉球とチャイナとの中間が無主地だったと理解させることは、彼らに中華思想を放棄させるための鍵なのである。
現代は多元的世界である。中華思想の時代は終了して頂かねばならない。それを迫るのはアジア文明を主導する日本の責務である。安倍内閣が南は東南アジアから印度まで、北はモンゴルと手をたづさへて中華思想のチャイナを取りかこむのは、大印度文明圏の通例にしたがってゐるに過ぎない。麻生・安倍二氏の提唱する「自由と平和の弧」とは、古くからの大印度文明圏の南半分である。北半分の多くは現在チャイナに統治されてゐるが、唯一モンゴルだけは安倍首相も訪問することができた。
日本が中華思想に向き合ふ時に極めて適切な四字語がある。チャイナ側は宴席などで「中日友好」を持ち出すことが多い。日本側は、日中友好も大切だが「世界平和」のためにこそ乾杯しようと答へるべきである。便利な言葉としてお薦めしたい。
第3回 「尖閣480年史は「陳侃三喜」から始まった」
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13450
—————–
いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
中国の尖閣領有権の妄説を撃つ ①―釣魚島史の代表的漢籍に照らしても尖閣は日本の領土である(石井 望・長崎純心大学准教授) *日本名は魚釣島
第1回 「明石道友、大明の境界に入らず」
石井 望 長崎純心大学准教授
◆無主地確認は江戸時代初期
尖閣列島よりはるかに西側の「東湧島」が領土の東限であると、明の皇帝に上奏した記録が、元和三年(西暦1617年)の漢文史料(「皇明實録」)の中から見つかった。
――本年一月二十一日の讀賣新聞夕刊などでこの報道に接した人は、記憶の片隅にあるかも知れない。尖閣の西が東限だから、この時の尖閣は無主地であった。チャイナ側の「釣魚島を六百年前から支配してゐる」(昨年十一月外相演説)などの主張は明確に誤りである。
しかしこの報道よりもっと凄いものが有る。これより前の元和二年(1616年)に日本側で既に尖閣を無主地と確認した記録が、「湘西紀行*2」「東西洋考」「盟鴎堂集」*3といふ三種の漢籍の中に見える。これについては二月四日にキャノン・グローバル研究所にて研究報告したが、まだ世間にあまり流布しないので、いま略説しよう。
このとき日本の使者明石道友は、出航前に長崎代官(=長崎市長)から「大明の一草一粒をも犯すを許さず」(明の領土に立ち入るな)と命じられた上で、海を渡って東湧島に着岸した。そして明の偵察員に向かって「大明の境界に入らず」と述べた。明の領土を犯さないためには、東湧から東が無主地だと事前確認した上で渡航したのだと分かる。のちに明治政府は尖閣を無主地と確認した上で領土に編入したが、今度の史料で日本側の確認の年代を三百年近く繰り上げたことになる。古史料は法的に無効だとはいへ、明治の確認が決して一夜づけでなかったことを明示できた。
附言しておくと、チャイナ側が今でも使用する「釣魚嶼」・「釣魚島」・「釣魚臺」などは尖閣の古名であり、「尖閣」は日本が命名した現代名である。古名は決してチャイナ名でなく、命名者は不詳である。チャイナ側は一度も領有しなかったので、現代名無きまま現在に至る。
◆香港人の精神不安定
報道後、「いつ頃からなぜ尖閣を研究し始めたのですか」との質問を受けることが多い。短期連載の始めに、まづそこを述べておきたい。
私は平成八年に、返還前の香港に住んでカントン語を習ってゐた。漢文の古い字音を研究するためである。その頃保釣(尖閣奪取)運動は香港だけが突出して烈しかった。それにはわけが有る。それまで香港の人々は自分が半イギリス人であることを鼻に掛けて暮らしてきた。しかし香港返還が近づくと、西洋に移民できない大部分の人々は、自分がチャイナ人になることについて心の平衡を保つ必要があった。
心の平衡の材料となったのが日本である。日本を「釣魚島泥棒」と呼ぶことにより、己れの自尊心を保ちたいとの渇望が、全香港を一色に染めつくした。連日沸騰する新聞テレビの威力で、私は街を歩くにも怖くなった。
その時香港の新聞テレビで繰り返し散布されたのが、漢籍中の片言隻句である。主なものをあげれば、
○明・陳侃「使琉球録」(釣魚嶼を記録する。チャイナの命名と主張。)
○明・鄭若曾「籌海圖編」(釣魚嶼を海防内に入れたと主張。)
○明・無名氏「順風相送」(釣魚嶼を記録する。1403年成立と主張。)
○清・汪楫「使琉球雜録」(釣魚嶼の東に「中外之界」を記録する。)
○清・官撰「重纂福建通志」(海防の卷に釣魚臺を記録する。)
〇清・西太后「慈諭」(釣魚臺を大臣に下賜すると述べる。)
などである。それを見て私の印象としては、「チャイナの領有だと明記されないから、法的には矢張り日本のものだが、文化的にはチャイナに近いのかな」と思った。ただ西太后の慈諭だけは法的に有効とも見えた。
◆原漢籍で正否を確認
香港での強烈な記憶により、以後私にとって尖閣史料は、日本人としての存在を自問する材料となった。そして報道の正否を確かめるため、尖閣の漢文史料を少しづつひもとき始めた。
ところが漢文の内容を知れば知るほど、文化的にも日本のものだとの確信が強まって行った。そこへ平成二十二年の秋に、あの漁船衝突事件である。領土のみならず日本の統治の根源がゆさぶられたことを多くの人は忘れない筈である。
しかしこの時、日本の尖閣報道や論壇の言説中には漢文史料が全く出現しなかった。これではいけないと私は思ひ、勉強の一端を論壇誌に投稿するとともに、本格的に研究を始めたのである。研究しながら常に抱いたのは、誰か親チャイナの評論家が、チャイナ側と同じく漢文史料を曲解して散布するのではないかとの危惧である。危惧は昨年、外務省元職員孫崎享氏らの言説散布によって的中してしまった。
彼らの所説は嘘ではないのか。次から代表的史料について逐一論破して見せよう。連載に御期待頂きたい。
第2回 「東沙山を過ぐれば是れ●山の尽くる処」 (※●…門に虫=びん)
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/13446
——————–
いしゐ のぞむ
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
【ご案内】2月11日、全国各地の「建国記念の日をお祝いする」行事にご参加を
2月11日、全国各地で建国記念の日をお祝いする様々な行事が行われ、
また、天皇陛下御即位を奉祝する行事も各地で催されます。
ぜひ、お近くの会場にご参加ください。
■北海道・東北地方はこちら→http://www.nipponkaigi.org/category/event/event-02
■関東地方はこちら→http://www.nipponkaigi.org/category/event/event-03
■東海(中部)地方はこちら→http://www.nipponkaigi.org/category/event/event-04
■近畿地方はこちら→http://www.nipponkaigi.org/category/event/event-05
■中国地方はこちら→http://www.nipponkaigi.org/category/event/event-06
■四国地方はこちら→http://www.nipponkaigi.org/category/event/event-07
■九州・沖縄地方はこちら→http://www.nipponkaigi.org/category/event/event-08
[声明]習近平国家主席の国賓としての招聘を憂慮する声明( 令和2年2月7日)
■習近平国家主席の国賓としての招聘を憂慮する声明
周知のように、日中両国の間には「4つのトゲ」と称される「尖閣諸島」「日本人拘束」「日本食品輸入規制」「香港・ウイグル」の外交問題があるが、中国は日本政府の要求を拒み続けており、改善の見通しは全く立っていない。
その中にあって、河野防衛大臣は1月、米国において、尖閣諸島周辺で中国公船が今なお活動していることに触れ、「中国が状況を改善する努力をしなければ、4月に予定している習近平国家主席の国賓としての日本訪問に支障を来す」と講演したと報じられている。
それに加えて、河野大臣は香港やウイグルなどの人権問題、南シナ海での軍備拡張を念頭に、「中国が自由や民主主義、法の秩序といった国際規範をないがしろにするなら、国際社会と連携して、中国に相応のコストを支払わせる状況をつくる必要がある」と語った。極めて正論である。
安倍政権は発足以来、地球儀を俯瞰する外交戦略を掲げ、「積極的平和主義」などの取組みは、各国の幅広い理解と支持を得てきたが、このまま習主席の国賓としての来日が実現すれば、日本外交に大きな禍根を残しかねない。
一般に、隣国と諸課題を協議し、関係改善に向けた首脳外交を行うことは重要である。毎年あまたの国家元首級の要人が来日している。しかし、国賓としての招聘は別であり、僅かに1~2か国に限られる。現在の中国の国内外での振る舞いを見れば、中国が国賓待遇の国としてふさわしいと言えないことは明らかである。
また、国賓としての来日の場合、天皇陛下とのご会見、宮中晩餐会など、天皇皇后両陛下はもとより、皇族方は心を込めたおもてなしにのぞまれることになる。ご会見の席で、習近平主席から天皇陛下に中国ご訪問の要請があることはほぼ間違いあるまい。
歴史を振り返れば、平成4年、宮澤内閣は中国の求めに応じ、上皇上皇后陛下の中国ご訪問を強行したことがあった。それは、無抵抗の市民・学生を人民解放軍の武力で鎮圧した、いわゆる「天安門事件」によって国際的に孤立していた最中のことである。当時の中国の銭其琛外相は、のちに「日本の天皇がこの時期に訪中したことは、西側の対中制裁を打破するうえで、積極的な作用を発揮した」と、天皇ご訪中を政治的に利用したことを誇らし気に認めている。その轍をふたたび繰り返してはならない。
昨年10月の内閣府の調査では、75.5%の日本国民が日中関係を「良好だと思わない」と実感しているように、中国に対する国論は非常に厳しい。
翻ってみれば、昨秋、即位礼正殿の儀にのぞまれた天皇陛下は、内外に「日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と宣明された。
もしも政府が、国論が分かれている中で習主席の国賓招聘に固執するならば、「日本国及び日本国民統合の象徴」としての天皇陛下の御品位を傷つけることになる。
更に現在、中国の武漢で発生した新型コロナウィルスは、世界的な猛威を振るい始め、中国本土での感染者は既に3万人を超え、死者も600人に達した。そして新型肺炎は終息どころか今後の拡大予想さえつかない。このような時期に中国の最高責任者を国賓として招くことは国民だけでなく国際社会の理解も得られない。
我らはここに習近平主席の国賓としての来日が我が国の国益を大きく損なうことを深く憂慮し、その前に政府があらゆる外交ルートを通じて、中国に対し両国間に横たわる重要課題の解決に尽力するよう働きかけることを強く求める。
令和2年2月7日 日本会議
[声明]情報収集のため、海上自衛隊の中東派遣を支持します(令和2年1月31日)
■情報収集のため、海上自衛隊の中東派遣を支持します
■自衛隊でなければ国民生活の生命線を護ることはできません
政府は、海上自衛隊を中東のオマーン湾周辺や北アラビア海などに派遣し、航路の安全情報を収集して民間船舶に情報提供することを決めました。
1月11日には新たな任務を持った哨戒機2機が那覇から出発、2月2日には護衛艦「たかなみ」が横須賀から出港します。
日本会議では、航路の安全確保のための自衛隊派遣は、国民生活を守るために極めて重要であると考え、このたび中東派遣を支持します。
————————————————————
[声明]航行の安全確保のため自衛隊の中東派遣を支持する
令和2年年頭、イラク領内で米国とイランの軍事衝突が生じ、一気に中東での緊張が高まった。日本政府は米国、イラン、中東各国に対し緊張緩和を呼びかけている。
一方、昨年6月には、オマーン湾などでタンカーの襲撃事件が相次いだ。この中には日本向けタンカーも含まれていたが、今なお航路の情報は乏しく、中東を往来する船舶の乗組員は、不安を抱きながら同海域を航行しているのが実情である。
そのため、日本政府は航路の安全情報を収集し、民間船舶に情報提供するため、防衛省設置法の「調査研究」を根拠として、海上自衛隊の哨戒機と護衛艦の派遣を決めた。派遣にあたり、安倍総理は、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、オマーンの首脳に、派遣の意義を説明し、各国から理解と賛同を得た。長年にわたる日本と中東各国との友好関係によるものである。
一部野党は中東情勢の緊張を受け、「この状況で派遣する感覚は信じられない(立憲民主党)」、「自衛隊を派遣すること自体が武力による威嚇ととらえられる(国民民主党)」、「無謀かつ危険極まりない(日本共産党)」と自衛隊派遣を批判している。
日本会議では、以下の理由から自衛隊派遣を強く支持する。
現在緊張が続くホルムズ海峡は、日本関係の民間船舶が年間3900隻、うちタンカー2600隻が航行する重要な海域である。
日本が使用する石油の9割が中東から運ばれており、石油は、ガソリン、灯油、発電などに使われ、工業、農林水産業、流通輸送など各種産業の基盤として、国民生活を支える必要不可欠の物資だ。タンカー以外の船舶も日本からは自動車、機械、電子機器、食料品、清涼飲料などを運び、石油と同じく日本の経済を支えている。
中東から運ばれる石油には代替ルートがなく、中東情勢の安定と航路の安全は、日本経済と国民生活にとって死活的に重要である。まさに日本の生命線といってよい。
自衛隊以外に、この生命線を守ることはできない。
一部野党のように、危険が想定される海域に自衛隊を派遣することは否定する一方で、民間船舶が中東を往来することについて何の対策を講じないのでは、国民の理解は得られない。
自衛隊が収集した航路の安全情報が民間船舶に提供されることにより、危機の回避につながる。さらに民間船舶の乗組員の安心感も高まる。よって、自衛隊の派遣には大きな意義があるものとして、これを支持する。
政府・国会においては、国民の生命財産を守るため、自衛隊が民間船舶を護衛するための法整備と憲法規定について議論を進め、航路の安全確保に万全を期すよう求める。
令和2年1月31日 日本会議
About the documentary film, “The Main Battleground of The Comfort Women Issue”
On April 20, this year, a documentary film directed by a Japanese American, Miki Dezaki, “The Main Battleground of The Comfort Women Issue” was released in Japan.
We have to inform the members and the supporters of Japan Conference that there are many false accusations of us in this film that cannot be overlooked.
This film contains interviews about “the comfort women issue” with some organizations in Japan, South Korea and the US, and 20-odd individuals, such as journalists, scholars and intellectuals, some of whom have attended conferences arranged by us or written articles in our magazines.
In this film, owing to the editing, it looks as if some people are speaking on behalf of Japan Conference and it is misleading to viewers. But, in fact, they are expressing their personal opinions that are not necessarily reflecting our official stance.
It is interviewer’s responsibility to show clearly whether each opinion is personal or on behalf of any organization such as us. The interviewer of this film should have checked with our office to find it out.
Moreover, in this film, Japan Conference is described as an organization which intends to revive the Constitution of the Empire of Japan, oppress the basic human rights and get back to the prewar Japan by exerting power to influence Japan’s political world. This is a made-up story and a totally groundless delusion.
Japan Conference, since its foundation, aims to amend the Constitution of Japan to meet the changing reality surrounding Japan.
Japan Conference has never aimed to revive the Constitution of the Empire of Japan nor has denied the principles of the Constitution of Japan.
We would like to emphasize the fact that while making the film, the director, Mr. Dezaki, and the producers have never contacted us to verify the facts nor interviewed with us.
ドキュメンタリー映画「主戦場」について―About the documentary film, “The Main Battleground of The Comfort Women Issue” (和・英文)(平成31年4月19日)
本年4月20日より、国内において、日系アメリカ人ミキ・デザキ監督制作による「慰安婦問題」を扱ったドキュメンタリー映画「主戦場 The Main Battleground of the Comfort Women Issue」が公開されます。
この映画には、日本会議に関して著しい事実誤認が含まれていることから、ここにその誤りを指摘するとともに、会員、支援者の皆様にお知らせいたします。
本作品は、「慰安婦問題」に関わる日本、韓国、米国の団体、言論人、学界、文化人など20数名にインタビューした内容が含まれています。
その中には、過去に日本会議の会合や機関誌などにも登場している学者、文化人、言論人の方々の発言があり、あたかも日本会議の見解であるかのように編集されており、視聴者へ誤解を与える内容となっています。しかし、これらの方々の発言は、日本会議の公式の立場を表明したものではなく、あくまでも個人の見解を明らかにされたものと承知しております。
個々の発言内容が、所属する団体の公的な見解であるか、個人の発言であるかを確認することは取材活動の基本であり、これらは日本会議事務局に確認すれば直ちに明らかになることです。
更に本作品では、日本会議は「大日本帝国憲法」を復活させて人権を抑圧し、戦前回帰を目論む団体であり、政界に影響力を行使していると描かれております。しかしこれは、全くの事実無根であり、根拠の無い妄想に過ぎません。
日本会議は、前身の「日本を守る会」「日本を守る国民会議」以来、憲法改正を方針に掲げており、大日本帝国憲法の復活を表明したことは一度もございません。また日本国憲法の掲げる諸原理を否定したこともございません。
これらいずれのことにつきましても、監督のミキ・デザキ氏及び制作陣からは、日本会議事務局への何等の事実確認、取材はないまま本作品は作られたものであることを重ねて表明し、皆様にお知らせするものです。
——————————————————–
About the documentary film, “The Main Battleground of The Comfort Women Issue”
On April 20, this year, a documentary film directed by a Japanese American, Miki Dezaki, “The Main Battleground of The Comfort Women Issue” was released in Japan.
We have to inform the members and the supporters of Japan Conference that there are many false accusations of us in this film that cannot be overlooked.
This film contains interviews about “the comfort women issue” with some organizations in Japan, South Korea and the US, and 20-odd individuals, such as journalists, scholars and intellectuals, some of whom have attended conferences arranged by us or written articles in our magazines.
In this film, owing to the editing, it looks as if some people are speaking on behalf of Japan Conference and it is misleading to viewers. But, in fact, they are expressing their personal opinions that are not necessarily reflecting our official stance.
It is interviewer’s responsibility to show clearly whether each opinion is personal or on behalf of any organization such as us. The interviewer of this film should have checked with our office to find it out.
Moreover, in this film, Japan Conference is described as an organization which intends to revive the Constitution of the Empire of Japan, oppress the basic human rights and get back to the prewar Japan by exerting power to influence Japan’s political world. This is a made-up story and a totally groundless delusion.
Japan Conference, since its foundation, aims to amend the Constitution of Japan to meet the changing reality surrounding Japan.
Japan Conference has never aimed to revive the Constitution of the Empire of Japan nor has denied the principles of the Constitution of Japan.
We would like to emphasize the fact that while making the film, the director, Mr. Dezaki, and the producers have never contacted us to verify the facts nor interviewed with us.
新元号の公表にあたって(平成31年4月1日)
元号はわが国において、古来より、その時代に対する理想や願いがこめられてきた歴史があると考えます。
天皇陛下は御即位から30年間、諸外国との友好親善、戦歿者の慰霊、災害被災地のお見舞いや社会的弱者への励ましなどを通じ、平成の元号にこめられた「内平らかに外成る」「地平らかに天成る」の理想を御自ら実践してこられました。
4月1日に公布される新元号が国民に広く受け入れられ、5月1日の新天皇の御即位とともに、天皇と国民が新しい元号にこめられた理想と願いを共有し一つの時代を共に歩んでいくことを念願しております。
政府は我が国における元号の歴史の重みと意義について改めて留意し、新元号が国民生活に定着するよう、一層の啓発に努力されることを期待します。
また4月30日には、今上天皇の退位礼正殿の儀、5月1日には新天皇の剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀がおこなわれ、秋には即位礼正殿の儀、大嘗祭などの皇位継承儀式が続きます。
これらの皇位継承儀式が、わが国の伝統をふまえてつつがなく挙行され、天皇を国民統合の象徴と仰ぐ日本の国柄が、国民の感謝と祝意の中で内外に示されることを願ってやみません。
「週刊ダイヤモンド」10月13日号記事の誤りについて(平成30年10月16日)
「週刊ダイヤモンド」10月13日号は、「森の中に隠遁もと右派教団の今 リベラルに転向 生長の家」の記事中、日本会議について次のように記述しました。
(1)生長の家といえば、安倍政権を後ろ支えする国内最大の右派団体「日本会議」の主要構成員だったことはよく知られている。
(2)日本会議事務総長、椛島有三氏は生学連のトップを務めた人物だ。
しかし、これらの記述はいずれも事実に基づかない記述です。
(1)について
宗教法人生長の家が、日本会議の主要構成員だった事実はありません。宗教法人生長の家は、日本会議の前身団体「日本を守る会」が昭和49(1974)年に結成された際、谷口雅春総裁が代表委員に就任され、また昭和56(1981)年の「日本を守る国民会議」結成以降、国民会議の国民運動に参画されましたが、昭和58年(1983)年に、これらの活動の停止を宣言され、「日本を守る会」、「日本を守る国民会議」の国民運動組織からは脱退しています。
宗教法人生長の家が国民運動上の協力関係にあったのは、本会前身団体のわずか10年足らずのことです。
「日本を守る会」、「日本を守る国民会議」が合流して「日本会議」が結成されたのが平成9(1997)年になりますが、結成前も含め今日までの30数年間、宗教法人生長の家とは、一切の関係がございません。よって、生長の家をして「『日本会議』の主要構成員だった」と評することは、事実誤認であり読者に誤解を与える内容です。
(2)について
また、日本会議の事務総長を務める椛島有三が、「生学連のトップを務めた」事実も全くございません。
椛島は、「生学連」のトップはもちろんのこと役職についたことは一度もありません。
[靖国]8月15日、靖国神社で「戦歿者追悼中央国民集会」が開催さる(平成30年8月16日)
8月15日、靖国神社・大村益次郎銅像横の特設テントに1,600名が集い、第32回「戦歿者追悼中央国民集会」が開催されました。
集会では、国歌斉唱、靖国神社を拝礼した後、昭和20年8月15日の「終戦の詔書」の玉音放送を拝聴。
主催者を代表して、田久保忠衛氏(日本会議会長)、寺島泰三氏(英霊にこたえる会会長)が挨拶を述べました。
また各界を代表して、下村博文氏(衆議院議員・元文部科学大臣)、ケント・ギルバート氏(米国カリフォルニア州弁護士)、山田吉彦氏(東海大学教授)からそれぞれ提言が行われました。
正午に参加者全員で戦歿者へ黙祷を捧げたました。続いて日本武道館からの中継により、政府式典における天皇陛下のお言葉を拝聴。
その後、平成最後の国民集会の総意として
「戦歿者追悼の中心施設である靖國神社への総理・閣僚の参拝再開」を切望し、「天皇陛下ご親拝の途を拓く」との誓いが込められた声明文が朗読されました。(以下に、声明文の全文を掲載)
最後に全員で、「海ゆかば」を斉唱し、集会を終えました。
--------------------
●「声明文」PDFをダウンロード↓↓↓
■声 明
今日、我々が享受している平和と繁栄は、幕末維新から先の大戦に至るまで、国家存亡の危機に際して尊い一命を捧げられた、ここ靖國神社に鎮まります二百四十六万余柱の英霊の献身によって築かれたものである。
にもかかわらず、戦後日本は、戦勝国の立場から我が国を一方的に断罪した東京裁判史観を払拭できず、英霊の名誉は冒涜されたままで、未だ回復されるに至っていない。さらに「平和主義」なる美名のもとで我が国の主権と国民の生命・財産を守るべき国家の責務を軽んずる悪しき風潮が蔓延してきた。
かくして我が国を取り巻く国際環境は、益々厳しいものとなっている。六月の米国・北朝鮮首脳会談の合意にも拘わらず北朝鮮の非核化には具体的進展はなく、中国は東シナ海・南シナ海での海洋覇権の確立を目指し露骨な軍事行動等を展開し、ロシアはわが国固有の北方領土の軍事拠点化を図っている。さらに、韓国は反日・親北朝鮮の文在寅政権の登場により平成二七年十二月の日韓合意をも蹂躙されるにいたっている。
このような中、天皇陛下は御即位以来、国民統合の象徴としての務めを果たされる一方、戦歿者慰霊について格別の大御心を寄せられ、国内外に亘って慰霊の旅を続けられてきた。しかしながら、我が国戦歿者追悼の中心施設である靖國神社には、皇太子時代に五回の行啓が実現したものの、残念ながら御即位後の実現には至っていない。天皇陛下の御譲位まで約八か月と限られた期間となってきた。天皇陛下の靖國神社へのご親拝を頂くためには、我が国の最高責任者である総理及び閣僚の靖國神社参拝が再開し定着しなければならない。我々は、ここに総理及び閣僚の靖國神社参拝の再開と継続を切望する。
他方、ようやく戦後の悪しき風潮と決別する動きも生まれつつある。直近の参議院及び衆議院総選挙において、憲法改正に前向きな勢力が憲法改正の国会発議を可能とする国会の三分の二以上の議席を獲得したからである。ところが、祖国防衛の戦いで散華された英霊を軽んじ、自衛隊を否定し続けてきた戦後の悪しき風潮に染まる一部政党が、市民活動家や一部報道機関の後押しを受けて、憲法改正による「自衛隊の憲法明記」を阻止すべく、執拗に国会での審議を妨害し続けている。
幸いにも平成二十六年十月に開始された憲法改正賛同者署名運動は、全国四十七都道府県・各種団体のたゆみない活動の積み重ねにより、今般ついに目標とした賛同者一千万名の大台を突破するに至った。この事実は、「戦後七十年」を経て、国民の意識が確実に変化している証左である。先の大戦終結から今日までの我が国の歩みを見た時、今回の機会を逃せば未来永劫に憲法改正の道は閉ざされると言っても過言ではない。占領軍によって一方的に押しつけられた現憲法を、一言一句も変えることもなく過ごしてきた今日、我々は、やっと自らの手による改正の好機が眼前に到来しつつあることを銘肝し、より一層運動の輪を広げ、その実現に向けて全力を結集せねばなるまい。
平成最後の本集会において我々は、我が国の戦歿者追悼の中心施設である靖國神社への総理・閣僚の参拝再開と定着を図り、天皇陛下ご親拝の途を拓く努力を継続するとともに、これらの諸課題に取り組み、強く美しい日本国の再生を目指す国民運動を一層力強く展開することを、あらためて誓うものである。
右、声明する。
平成三十年八月十五日
第三十二回戦歿者追悼中央国民集会
英霊にこたえる会
日 本 会 議
■日本会議になりすましたSNS上のアカウントについてのご報告(平成30年8月2日)
日本会議を名乗ったtwitter、Facebook上の偽アカウントにご注意ください。
最近、twitter、Facebook等のSNS上で、日本会議を名乗って情報を発信し、中には悪質な個人攻撃や特定の国籍や民族差別等の発信を繰り返すアカウントが見受けられます。
日本会議では、twitter、Facebookの公式アカウントを持っておりません。いかなる個人に対しても公認を与えておりません(平成30年8月1日現在)。
また、特定の個人への攻撃、特定の国籍や民族への差別を助長する行為も一切推奨したことはありません。
くれぐれもこうした発信にご注意ください。