設立総会

設立総会

時:平成9年5月30日 所:東京・ホテルニューオオタニ

設立総会詳報

設立総会詳報

小田村 四郎
より強力な国民運動の推進を

 昭和四十九年に当時の内外情勢の打開を目指し「日本を守る会」が、さらに昭和五十六年に「日本を守る国民会議」が結成され、この両団体がお互いに相提携しつつ国民運動を展開して参りました。

 皇室関係の運動では元号法制化実現をはじめ、昭和天皇の御在位五十年、御在位六十年ならびに今上陛下のご即位の奉祝式典、大パレードの実施。また御代替わりに関して御大葬、大嘗祭の問題について取り組んできました。歴史問題では高校日本史教科書を編纂。終戦五十周年に際しては、諸外国の来賓をお招きし「アジア共生の祭典」を挙行、国会における謝罪決議の動きに対しては五百万人の決議反対阻止の署名を集めました。そしてあらゆる問題の禍根をなしている現行憲法の改正間題に関しては、新憲法の制定を提唱して参りました。

 しかしながら、最近の内外情勢は領土問題、教育問題等をはじめ、最高裁の偏向判決まで出るというような誠に憂うべき深刻な事態にあり、これまでのような両団体の提携による運動では不十分である。むしろこれを合体して新しい組織を結成し、強力な国民運動を展開する必要がある、という認識に立ち、ここに「日本会議」を結成することになった次第です。昨日結成された「日本会議団会議貞懇談会」の諸先生方のご指導ご協力を得ながら、また、黛先生のご遺志を体して、私共、今後、皇室、安全保障、教育等々の国家の基本問題に積極的に取り組み、そして再び日本をかつての輝かしい日本に戻して参りたいと考えている次第です。

新会長挨拶

塚本 幸一
日本の再生を我らの手で

塚本幸一会長ご略歴

 大正9年滋賀県生まれ。昭和15年陸軍入隊。19年インパール作戦に参加、九死に一生をえて21年復員し、「和江商事」を創業。24年「和江商事株式会社」を創立、社長就任。39年社名を「株式会社ワコール」に改め、一代で従業員4000人を擁する企業に育て上げる。62年代表取締役会長に就任。京都商工会議所名誉会頭、日本商工会議所副会頭。経済企画庁経済書議会委員、その他多数の公職を務める。平成2年勲二等瑞宝章受章。平成9年5月より日本会議初代会長。

生かされて祖国再建に立ち上がる

 私は昭和十五年から陸軍に入隊し、日支事変から大東亜戦争まで第一線で戦い、最後は最も悲惨といわれたインパール作戦に参画しました。そして部隊五十五名中わずかに三名生き残ったうちの一人です。九死に一生を得た私は、帰国する南太平洋上で、「なぜ、私は生きているのか」と深刻に悩み続けました。

 そして出した結論は「生きているように見えるけれども、実際は生かされたのだ」ということでした。しかもそれは私という個人のために生かされたのではない。肇国以来、はじめての大敗戦を喫し、今後、日本がどうなるかわからない。しかし、苦から日本には「災いを転じて福となす」という諺もある。我々がこれからどう行動していくか、ということによって新しい日本は開けていくに違いない。「おまえもそのひとりとして生かしてやったんだ。だから生ある限り日本再建復興の一翼を担え」という声が天から聞こえてきました。そして復員したその足で京都の護国神社にお参りをし、戦友の霊にその思いを誓ったのです。

 戦争には負けたけれども、戦勝国に比して日本人の民族性が低いわけではない。ですから私なりに商売を通じて世界に挑戦をしてやろうという野望を持ち、今日までやってまいりました。

黛敏郎氏との出会い

 昭和四十三年、大政奉還から丁度百年という記念すべき年を迎え、松下幸之助さんが「霊山顕彰会」を京都で作られました。明治維新の志士の墓を立派にお祭りしようとする会でしたが、私もそれに参画し、また「日本を考える青年会議」を結成して、京都国際会館に全国の青年を集めて記念講演会を催しました。そのときの講師の一人が黛敏郎君でした。

 それが黛君との最初の出会いで、以来約三十年、いろんな機会に交友を重ねてまいりました。

 そんな関係もありましたけれども、まさかその黛君が長い時間をかけ準備をし、待ち焦がれた今日の日を目前にして亡くなり、そして思いもかけず私がこの盛儀に会長として壇上に立つなどということは全く夢にも思っておりませんでした。

 しかし、「日本復興のために生かされたのだ」という信念はこの五十年間持ち続けていました。今回、はからずも「日本会議」の会長の要請を受けたときに、いよいよ最後のお務めとして、恐らく天は運命的に私にそういう職を与えたのだろう、と確信しました。愛国の精神において、私は決して誰に劣るものでない」私なりに最後の人生を全力を挙げて、この国の立て直しのために頑張りたいと決意いたしました。

我々の力で憲法改正を

 戦後の与えられた民主主義、一見言葉はきれいでありますが、今はいろんな弊害が出てきています。日本のすばらしい精神文化も伝統もだんだんと剥奪されています。何とかしなければ、この国はあと三十年もつだろうか、という強い危機感を抱いております。

 そのためには、まず何といっても、憲法を変えなければなりません。芯が腐っていたのではこの国は立ち直れません。世界から信頼され尊敬される国家、国民を創っていくことこそ、今の日本人に最も求められているのではないでしょうか。日本は古来、すばらしい精神文化を持っています。「和をもって尊しとなす」という精神は、すでに聖徳太子の時代のものです。世界の人々と共生する精神は、この「和」の精神であり、ハーモニーであります。

 そういうことを我々は戦前、教育として十分に受けて参りました。しかし戦後の教育では、「教」という学問の知識の詰め込みはあっても、「育」という人間を育て精神文化を培養する機能はすっかり消えています。これを何とかしなければなりません。しかも悠長には構えていられません。七十年間共産教育を受けたソ連という国は今、大変な苦労をしている。日本もいまや知らず知らずの間に根から腐りかけています。資源もない国、人間のみが資産であるこの国にとって、人間が腐ってしまっては何もありません。これに気付いている日本人がどれだけいるでしょうか。

 しかし私は、多くの日本人の中にはまだすばらしい伝統精神が生きていると信じます。これを我が「日本会議」が日本中に徹底させて、五千万人以上の「日本会議」のメンバーができた時に、我々の力をもって憲法改正もできると思うのです。

 私は純粋に日本の将来を考えてかくあるべしと思うことをこれからも皆さんと共に叫び続け、行動し続け、及ばずながら一命を賭して日本再建復興の一翼を担いたいと思います。どうか皆さん、お手助けをお願い申し上げます。そして皆さんと共に、子孫のために本当に立派な日本を再生しようではありませんか。

日本会議国会議員懇談会からのご挨拶

島村 宜伸
日本会議とともに

 「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が合併し新たなスタートを切られるにあたり、この動きに呼応して、「日本会議国会議員懇談会」を組織しようと、先輩各位のお計らいの下に呼びかけをし、はからずも私に会長を務めろとの要請をいただきました。誠に借越とは存じましたが、私も国家に殉ずる意識においては先輩に伍して恥ずかしいものはない、と考えてあえてこの大役をお引き受けさせていただくことになりました。ただ今、この組織づくりの最中ですが、参加者は私たちも驚くばかりに増え続けています。

 さて、わが国は先の大戦に敗れたものの、現在ではまさに経済大国として繁栄を得ました。しかしながら、「物で栄えて心で滅ぶ」ということが現実に思えるくらい、何か虚ろなものを感じざるを得ません。長い歴史と伝統の中で先人が培って来た知恵や美徳が投げ捨てられ、舶来のものがすべて優先されるような状況の中で、日本民族の根底が揺らいでいると考えざるを得ないのです。また、いつまでも憲法を盾に安保条約を支えに、他力本願の中に一国平和主義を食っているときに、日本の将来は、ある日突然崩壊の危機を迎えるでありましょう。一国平和主義、一国繁栄主義は国際社会では全く通用しない常識であります。

 二十一世紀をわが日本にとって輝ける世紀とすることができるか否か、これはすべて今までの日本人の意識構造が改革されるかどうかにかかっていると思います。この「日本会議国会議員懇談会」の活動は、そのまま日本の盛衰にかかわることだ、と考えております。

各界からのご挨拶

平沼 赳夫
国民運動と相携えて

 「日本を守る会」、「日本を守る国民会議」に関して、自由民主党には深い思いがあります。元号法制化のとき、今日お集まりの皆様方が全国それぞれの地域で強力な運動を展開していただき、それが煉原の火のように広がって各地域の議会を動かし、そしてついに国会も動かして元号法制化が実現しました。まさに皆様方のお力でありました。

 また、歴史教科書が大変偏向しています。英国の教科書にはネルソン提督と同じ扱いでわが東郷平八郎元帥の写真入りの記述があります。しかし、我が国の教科書には乃木希典大将の名前も束郷平八郎元帥の名前もありません。そういうことを憂えられて、新しい高校の歴史の教科書の編集にタッチされたのも皆様方でありました。あの 『新編日本史』検定事件のとき、黛先生とときの中曽根総理の部屋まで行って、思いを訴えさせていただきました。

 しかし、二十一世紀を間近に控えて、皆様方のご努力の結果、国会の中にも衆議院五百名のうち、二五〇名を越える議員の賛同によって国会の中に新設の憲法の常設委員会を作ろう、こういう動きも広がって参りました。私は議会運営の責任者として、半数を越えた国会議員の思いを現実の国会の場で結実していくべく努力していきたい、という気持ちで一杯です。

 今日、こうして皆様方が新たな「日本会議」を結成され、我々国会議員も「国会議員懇談会」を設立致しました。相携えてそして皆様方と共にこのかけがえのない祖国のために一所懸命に頑張って参ることをお誓い申し上げ、お祝いのご挨拶とさせていただきます。

各界からのご挨拶

西岡 武夫
教育と憲法の改革を

 二つの点について申し上げたいと思います。ひとつはやはり日本の教育を、根本的に考えなおさなければいけないということです。自由主義社会というものは自己責任の社会であります。強い個人、自ら立つ、自ら律する、自立した個人によってはじめて自由社会というものは支えられ、発展することができると私は確信しております。そしてその自立した個人を育成することこそが教育の正に使命であろうとこのように考えます。

 同時に教育は日本の伝統文化をいかに正しく継承するか、このことをさらに深く私共は考えていかなければいけないのではないか。これまでの日本の伝続文化を正しく継承してはじめて創造する力というものも出てくるのです。ところが学問の自由をあえて教育の自由ということに意識的にすり替えて今日まで至った教育界に多くの問題があったのではないか。このように考えるときに、教育改革の問題について皆様方のお力を借りながら、私共も意を新たにして取り組んで参りたい、このように考えています。

 また、先般、超党派の国会議員の間で憲法問題についての常任委員会を国会につくる、という会ができました。私共、新進党はこの国会においても、自民党が決断をして、衆議院に憲法問題の常任委員会を設置するということを提案していただければ賛成を致します。そして一日も早く二十一世紀を展望し、新しい世代のために新しい筆で新しい憲法をつくるべきではないか。この二つのことを申し上げ、本日のお祝いの言葉と致します。

各界からのご挨拶

長谷川 三千子
百年の岐路に立つ日本-憲法づくりの難問

 「日本会議」の設立はたいへんに喜ばしいことですが、.それは裏を返せば今の日本がいかに切実な危機に直面しているか、その危機意識が形をとって現れて来たということであり、身の引き締まる思いが致します。

 基本運動方針の中にも新憲法の制定ということが大きな目標として掲げられていますが、教育、領土、家族、すべての領域にわたっての香うべき事柄の根幹に現行日本国憲法があるということが、十年前よりもさらに我々の目あるいは国民全体の目に見えるようになってきたと思います。

 設立宣言の中に、「伝統を尊重しながら、海外文明を摂取し、同化させて鋭意国づくりに努めてきた」という言葉があります。明治の先人たちは「伝統を尊重しながら、海外文明を摂取する」ということが、いかに難しいことであるかを身をもって体験し、そして大日本帝国憲法をつくった。伝統を尊重しながら、海外文明を摂取するということ、それをいかにして我々自身の国柄を傷つけない形で仕上げるか。それに対するひとつの答えがあの大日本帝国憲法だったわけです。

 今、それと同じことをする、つまり日本の国柄を考え、しかも世界の中の日本という地位を忘れずに憲法をつくる、この業は百年前よりもさらに一層難しい課題になっています。しかし、これから百年二百年の日本の進路がしっかりするか、あるいは今よりもさらに日本人の心をぐらつかせてしまう憲法ができあがってしまうか、その岐路に立たされているのが、今の日本だという気が致します。

閉会の辞

小堀 桂一郎
日本会議副会長、明星大学教授

 現在の日本は極めて多くの問題を抱えており、その多くが、自主憲法制定という大課題をはじめ政治問題です。したがって、その解決の具体的方策は政治家諸氏の力量に頼らざるを得ない。しかし、「日本会議」とは、民間有志の手作りによる国民運動であって政治家の支持団体ではありません。

 自由民主主義体制が成熟した国にあっては、立法府、行政府と民間の良識とは助け合い、補いあって国益の増進に向かう、つまり国民全体の利益と名誉を守り伸長させていくという形を取る。ときには政府が外交上の立場から、あるいは議会政治特有の政党間の力関係とから、にわかには実行しがたい政策もあるでしょう。その場合、民間の強い意志表示と支持によって実現せしめるということも生じ得るのです。「日本会議」は政府に頼るのでもなく、足を引っ張るものでもありません。ときには厳しい批判を敢えてすることがあるかもしれませんが、それはあくまでも国民全体の利益と名誉のために苦言を呈するのです。

 また、「日本会議」には純粋な民間の立場で為すべき事業が多くあります。国民倫理・道徳の再建、教育正常化、学術の振興など、これらも全国的な規模の問題ですから、「日本会議」という全国的な組織の中で総括的な事務連絡にあたる中央の事務局と全国各都道府県の運動中心との緊密な協力が是非必要であり、そのためには絶えざる親密な連絡網の維持ということが必須の条件となりましょう。発会式の無事終了を喜び、明日からの活動開始に向けて心からの祝福をお贈りしたいと思います。

黛敏郎前議長を偲んで ~ 黛敏郎議長、最後のご挨拶と追悼の夕べ

黛 敏郎
新たな国難に新たな力を
黛敏郎

黛先生最後のご挨拶

 本稿は、黛敏郎議長が、三月二十日、東京・明治記念館で開催された本会第十四回総会で行われた基調講演の全文です。黛議長はこの年、平成九年四月十日逝去され、同総会での言葉が最後のご挨拶となりました。

 ここに謹んでご紹介し、黛議長をお偲びする次第です。

 ご紹介いただきました黛でございます。「日本を守る国民会議」の第十四回の総会にかくも多数ご出席いただきありがとうございます。本日は休日でございますので、さぞかし皆様ご多用のところと拝察し、二重の恐縮を感じております。

 考えてみますと、「日本を守る国民会議」は、毎年、春に総会を開催して参りました。今回で十四回を数えますが、今日の総会はいささかいつもの総会とは遠い、おそらく国民会議創立以来最後の総会となるものと思います。ご承知のように一昨年来、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」 の統合問題が話題に上りまして、それから関係者一同鋭意その準備を進めて参りました。今、ようやく機が熟したかの感がございます。いうならば、今日は国民会議最後の締めくくりの総会、という意義のある会合になろうかと存じます。

国益を守る真の外交を

 私は最近よく思うのですけれども、竹島の問題は一体その後どうなったのでしょうか。それから尖閣列島の問題はどうなったのでしょうか。最近はあまりにニュースが多く、これらの問題は新聞記事の片隅に追いやられ、全く姿を見せない日もございます。

 考えてみますと、この問題は大変に重要な問題でありまして、かたや韓国かたや中国に対して、両方ともに、大事な日本の主権が犯されつつある問題でございます。つとにこの問題は昨年来話題に上って参りましたけれども、私が考えますに、いずれも日本の国家主権が侵犯された問題でございますから、当然日米安保条約の適用の対象になる問題であろうと思います。

 しかし、私が知る限り、日本政府が正式によその国に提訴をし、あるいは当事国であるところのアメリカが、いかに応えたかということはほとんど知らされておりません。一カ月くらい前、ある新開の第一面の中央あたりに二段抜きで、アメリカの新しい国務長官が、竹島、尖閣諸島の問題は日米安保の適用外とするという声明、あるいは談話を発表したということが載っていたのを、私はおぼろげながら覚えております。それだけであります。当然、これは日本の主権が両国によって犯された由々しい問題でありますから、それなりの重大問題として取り扱われるべきであるのに、どちらの政府も一向にその気配がない。

 時まさに、沖縄基地の問題がクローズアップされております。沖縄基地を縮小するのか、今まで通り日本国民の負担において維持し続けるのかということは、具体的に竹島と尖閣諸島の問題がクローズアップされているのですから、アジア情勢と日米安保条約の適用という問題と相関的に論じられるのが当然だろうと思います。しかし、どうもそうではない。

 それのみならず、今年のはじめに韓国大統領が非公式で九州に来たとき、私は個人のルートも通じて橋本総理に、「これはまたとないいい機会だから、日本の立場と竹島の現状を是非とも韓国大統領に訴えて、善処を促すべきではないか」ということを申し上げました。しかし政府にはそういう積極的な姿勢がございませんでした。

 それのみならず、「こういう複雑な外交関係は事を荒立てない方がよろしい」と、事を荒立てるとかえつて解決すべき問題も解決しなくなるから、というのが政府の非公式な見解のようでございました。冗談じゃありません。事を荒立てないでなぜ正常な外交関係が成り立つのでしょうか。外交ということはお互いに国と国との利益が相ぶつかる話であります。事が荒立つのは当然でありまして、それを荒立てないでいいということは、黙って泣き寝入りするか、そうでなければ放っておくか、あるいは向こうの言う通りになるか、そのいずれかでありまして、私は日本という国がこれほど不甲斐ない国家にいつなったのかということで、慨嘆をしておる次第であります。

 もともと、日本の、韓国あるいは北朝鮮も含めてよろしいのでしょうけれども、中国、台湾に対する外交は「遠慮外交」といわれていた。「遠慮外交」ならまだよろしい。つい先程までは「土下座外交」といわれておりました。一国の主権が脅かされようというとき、このような「土下座外交」や「遠慮外交」 で果たして将来の国益が守れるものでしょうか。私は先を思うと暗塘たるものがあります。

新しい獅子身中の虫

 私共が「日本を守る国民会議」を結成しましたときには、東西対立の激しい時代でありました。その後、辛か不幸か、不幸というのは共産主義陣営にとっての話でありますが、我々にとって幸いにもソ連を中心とする共産主義は崩壊致しました。「やれやれイデオロギーの対立というものがなくなって、これからは我々の言いたいことを、やりたいことを、自由という錦の御旗の下にやっとやれる時代が来た、これでこそ私どもが今まで憲法や教育や防衛に対して、国民運動としての広がりをもってきた甲斐があったな」と思ったのもつかの問、共産主義にとって代わるところの新しい民族主義というものが台頭致しました。

 共産主義が崩壊したロシアがまずそれに見舞われ、イスラエル、アラブがそれに見舞われ、ヒンドゥーにもそれが適用され、近くはユーゴスラビア、アルバニア、それからアフリカ諸国ひいては南米に至るまでが、世界中、民族主義の嵐に席巻されております。そして、その中のいくつかのとばつちり、といっては語弊があるかもしれませんけれども、韓国と日本の問題や、また中国と日本の問題にも波及しているのではないでしょうか。

 そういうものの一端が、私の国の内憂にも降りかかってきております。昨今やかましく論議されているところの歴史教科書の問題、「従軍」慰安婦の問題、これは五十年来いまだかつて聞いたこともない言葉が、どういう経緯か知りませんが、突如として出て来た、そうとしかいいようがありません。そこには明らかに何らかの陰謀があり、何らかの画策があり、そしてそれに加担しているのは日本の浅薄なジャーナリズムでありますけれども、我々は新しいそういう獅子身中の虫と戦っていかなければならない。

 夫婦別姓の問題もそうであります。少なくとも社会の秩序の最小の単位が夫婦であるとするならば、その夫婦がお互いに違う姓を名乗って何が夫婦なのでしょうか。何が社会構成の一小単位なのでしょうか。

 それから、近くはまた外国籍の公務員を認めようという運動がございます。これも諸外国の常諷に照らせば、私も深くは知りませんけれども、びつくりするようなことであります。どこの国に自分の国の国籍をもっていない人間が、その国に居住し正式に国籍をもっている人間の権利を云々し、あるいはそれを保証するというようなことが考えられるのでありましょうか。全く笑止千万であります。そんなに日本の公務一員になりたいのだつたら、まず第一に日本の国籍を取得すればよろしい。それからはじめればいいのです。それを、その問題を頬かぶりをして、まずどこまでは外国人の国籍でも公務員として認めようと、これは筋違いというものであります。

新しい力で正しい世論を

 その他言い出すと数限りがございません。ひいてはご皇室の問題もそうでありますし、円安の問題もそうでありますし、不景気の問題もそうでありましょう。全てがお互いに関係し合って、今日、私共が国民会議を結成したときとは全く違った種類の、予想もしなかった種類の、新しい国の困難というものが始まっていると私は思います。私は、これは(戦後の)日本の第二の危機だろうと思います。終戦から考えるならば第三という言い方もできましょう。

 今こそ、私共は国民の声を糾合して、正しい国民世論というものが一体何なのか、ジャーナリズムの幻影に脅え、教育の偏向に災いされて、はつきりしたビジョンが作れなくなってしまった将来の日本を担うための、本当の意味での正しい世論というものは何なのかということを、私共はここで新しい力を手にして打ち立てるべきではないか、そのように考える次第でございます。

 どうも巻頭言としてはやや長きに失しました。どうぞこれから活発な論議をお始めいただいて、日本の将来のために資するところ多いにあらんことを希望させていただきまして、巻頭言に代えさせていただきます。どうもありがとうございました。

黛議長を偲ぶ夕べ

日時:平成9年5月29日
会場:明治記念館

偉大な生涯と人となりを偲び、遺志継承を誓う

 五月二十九日、「黛敏郎氏を偲ぶ夕べ」が東京・明治記念館・鳳凰の間にて開催された。

 この日は黛氏が逝去された四月十日から数えて帰幽五十日祭の日でもあった。「日本会議」の設立大会を翌日に控え、その初代会長に就任の予定だった黛氏の在りし日を偲び、遺志継承の誓いを立てることは、新組織「日本会議」に魂を入れる意味ともなった。黛氏の遺影が掲げられた会場には国会議員三十六名をはじめ、ゆかりの人々、約二六〇名が参集、約九十名の各界から寄せられた追悼文集『黛敏郎氏を偲んで』が配られた。

 冒頭、参列者全員で黛氏の御霊に黙祷を捧げ、つづいて主催者を代表して、毛利義就・日本を守る国民会議事務総長が挨拶を述べた。挨拶の後、在りし日の黛氏を偲び、今年三月二十日に行われた「日本を守る国民会議」総会での黛議長最後のご挨拶がビデオで流され、また黛氏が昭和天皇御製「花しのぶの歌しみじみ聞きて生徒らの心は花の如くあれと祈る」に曲をつけた「花しのぶの歌」が流された。この御製は昭和天皇が植樹祭で熊本に行幸の折り、尚胡高校の生徒らのマンドリン演奏に寄せられたもの。

 その後、五人の各界、ゆかりの人々から黛氏を偲んで追悼の辞が述べられた。中学の同級生で最後の闘病生活を見守った総合新川橋病院院長・内海栄一郎氏、政界から島村宜伸衆議院議員、経済界から塚本幸一(株)ワコール会長、中学の同級生の斎藤文夫参議院議員、学者・文化人から小堀桂一邸明星大学教授がそれぞれに故人の思い出、志を語った。

 同日の早朝、「日本会議国会議員懇談会」会長に就任した島村氏は「常に黛先生のお考え、ご存在を心にしっかりと刻んで先生の御霊に報いていきたい」と述べた。また、黛氏に代わって「日本会議」会長就任が決まった塚本氏は「運命的なものを感じた。黛氏とは心の奥で肝胆相照らす、という気持ちをお互い持っていた。国を愛する気持ちだけは決して君に負けない。一所懸命にやらしていただくことを黛君に誓いたい」と述べた。また、斎藤氏は「音楽や文学的な才能はもとより、気配りのやさしい素晴らしい人だった」と中学時代の黛氏の思い出を心を込めて語った。

 最後に黛氏作曲の「捏磐交響曲」が流れる中、参列者全員が遺影前に菊花を捧げた。つづいて会場を移して行われた直会では、参加者がそれぞれに黛氏の思い出を語り故人を偲んだ。

追悼の挨拶

毛利 義就
三輪山讃歌

 昭和五十六年、「日本を守る国民会議」を結成以来、黛先生には運営委員長、議長代行、そして議長、と一貫して「日本を守る国民会議」の先頭に立って運動に挺身をされてこられました。

 先生には「日本会議」の初代の会長就任のご承諾をいただいておりましたが、その直前の突然のご逝去に私共は途方に暮れました。惜しみても余りあるものがあります。しかしながら、その後任に塚本幸一先生にご承諾いただいたことは、間違いなく黛先生のお導きによるものと確信致しております。

 実は黛先生はお亡くなりになる丁度一カ月前、三月十一目に奈良の大神神社と大和盆地が一望できる桧原神社に参拝されました。私はこのことを同社の木山宮司様に伺ったときに、三島由紀夫先生が『豊餞の海』第二部の「奔馬」の取材のため、大神神社に参籠され、滝に打たれてみそぎをされたことを思い浮かべました。黛先生は同社境内の一角に桜井市の要請を受けて、昭和五十三年に記念碑を残しておられます。古事記の中巻、ヤマトタケルノミコトの段、「やまとは くにのまほろばたたなづく あをがき やまごもれる やまとし うるはし」。この一節に音符が付けられた自筆の歌碑であります。

 大神神社の職員の方のお話ではこの碑をじっとご覧になっておられたとのことです。体調がすぐれないのに、それをおしての参拝に先生のご心境はいかなるものであったかと拝察する次第です。先生は大神神社の社報『大美和』昭和五十年四十八号に、「三輪山讃歌」を寄せられ、その中で「紅葉に映える十一月の末、私はまた三輪山にやってきた。水ぬるむ春を迎えるたびに、新緑に美しい夏が来るたびに、そしてまた紅葉に映える軟、みぞれの降りしきる冬、四季おりおり何かにつけて私の心は三輪山へ飛ぶ。一体なぜこの山はこれ程、私の心を惹きつけるのだろうか。それはおそらく三輪山に来ると私は古代人の心に帰ることが出来るからだ」と思いを述べておられます。

 「日本会議」設立にあたり、黛先生のご遺志を継いでさらに一層国のため、民族のために遇進することをお誓い申し上げたいと存じます。

追悼の挨拶

内海 榮一郎
敢然と病に立ち向かった黛君

 黛敏郎君は中学の同級生です。私は黛敏郎作曲の病院歌を持っています。世界で一人ではないかと思います。

 私の病院の於保副院長は呼吸器が専門で特に肺癌に関しては世界的な権威です。於保ドクターは黛君のレントゲン写真を見て、「半年早く僕が診ていたら…」と絶句しました。心臓のすぐそばに肺癌の原発巣があり、肝臓にも多数の転移があったのでした。

 於保ドクターは黛君に次の三つの選択肢を示しました。①何もしないで静かに死を持つ、②化学療法だけを行う③積極的に手術をして原発病巣を切除し、転移に対して化学療法を行う。それを聞いた黛君は顔色ひとつ変えず眉ひとつ動かしませんでした。泰然自若とし、逆に私の方がそれこそ胸をかきむしられるような思いでした。しばらく考えてから、彼は毅然とした態度で「僕は三番目を選ぶ」と言いました。

 それから入院して手術、化学療法、副作用等々いろいろな苦痛が彼を襲いましたが、彼は終始ひとつも泣き言を言いませんでした。

 仕事の方も当然のことのように続け、「題名のない音楽会」の録画には病院から何度も出掛けました。注射針を入れたまま録画に行ったこともありました。

 オペラ「古事記」の初演にどうしても立ち会いたいといって、オーストリアのリンツにも行きました。日程に合わせて輸血その他の処置で体調を整え、彼は病院から直接飛行場へ向かいました。帰国したときは、さすがにへとへとになっていました。私は彼の手を取って心の中でまた泣いていました。

 彼は終始敢然として病に立ち向かいました。かつて中学一の美少年といわれた、あの黛君のどこにこんな強さがあるんだろうか。僕はこんな立派な患者さんを見たことがありません。

 毎日のように病院に見えて彼を支え、共に闘っておられた立派なご家族にも心から敬意を表しつつ、黛君のご冥福を祈りたいと思います。

追悼の挨拶

小堀 桂一郎
創造的芸術家と思想運動の統率者の見事な融合

 黛敏郎さんの名前を知ったのは、昭和二十六年のことでした。新進の作曲家としてのその華やかな才能に、当時、高校生だった私は心酔していました。

 しかし、昭和三十三年に黛さんが「捏磐交響曲」を発表されたのが、決定的な出来事でした。これこそは伝統を現代に生かした日本の美を究極的に世界に向けて送り続ける素晴らしい音楽なのだということがはっきりと感得できたのです。そして「畢陀羅交響曲」からオペラ「金閣寺」に至るまで、黛さんの芸術に対する私の尊敬と信頼は揺るぎないものとなっていきました。

 やがて「日本を守る国民会議」の運動に協力させていただくようになり、そのお人柄の魅力に私はさらに敬愛の念を深めていったのです。この運動の中の黛さんは、一口でいえば国士という存在でした。個人の中で芸術の創作家としての才能と、思想運動の統率者としての資質が見事に結び付いているのを見て、驚嘆の思いでした。

 とりわけ忘れがたいのは昭和六十一年の『新編日本史』外圧検定事件でした。文部省側と徹夜の交渉を行っていたときの私は実は少々暴走ぎみであったと今反省しておりますが、あのとき黛さんの常に揺るぎのない、非常に重厚なしかも賢明にして果敢な行動力一極めてまめにご自分でもって出るべきところに出向いて行って、どんどんお話を進めてくださる実行力一に富んだリーダーシップがなければ、あの教科書事件は実は破局に陥って、検定図書としては日の目を見ることはできなかったかもしれないのです。

 霊界の黛さんに恥じないように私共新たなる「日本会議」の活動を展開していくよりほか、黛さんのご期待に応え、その霊をお慰めする方途はないのではないかと密かに覚悟している次第です。

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