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五月二十九日、日本武道館でアジアの全戦没書へ1万名の祈りが捧げられた。ここでは、式典での挨拶を中心に当日の模様を伝え、アジアと日本の歴史と将来を考えたい。
>> アジア共生・東京宣言>> 開式の辞 黛敏郎 >> 主催者式辞 加瀬俊一 >> 議員連盟代表挨拶 奥野誠亮 >> 議員連盟代表挨拶 永野茂門 >> タイ王国代表 タナット・コーマン >> マレーシア代表 サイド・フセイン・アラタス >> インドネシア代表 サイデマン・スリヨハデイブロジョ >> 閉会の辞 佐藤和男 >> インタビュー@インドネシア サイデマン閣下 >> インタビューAチベット テンジン・テトン閣下 >> 戦争謝罪の国会決議問題を振り返って |
有史以来、人類の文明の主軸はアジアにあった。
その歴史は、エジプト、メソポタミア、インド及び中国に発祥を見た。アジアは、世界の偉大な宗教や哲学を生み出し、豊かな精神文化を誇ってきた。
また、アジアの海は世界の主要な貿易船が行き交う、最も繁栄した商業の海であった。アジアは自然の恵みに満ち、世界の人々がその多彩な物産にあこがれる文明の先進地域に他ならなかったのである。
このようなアジアを、「屈辱のアジア」へと転じさせたものこそ、欧米列強による植民地主義であった。アジア諸地域の多くが、苛酷な支配の下に置かれ、人々は貧困の極みに、国土は荒廃の只中に追いやられたのである。
耐えがたい屈辱は、民族の覚醒をよび起こす。二十世紀アジアの歴史は、日露戦争にはじまるアジア民族覚醒の歴史でもあった。
しかし、その道程は決して平坦であったわけではない。そこには大東亜戦争をはじめとする幾多の試練があり、苦難に満ちたアジア独立への戦いがあった。
われらはここに、この偉業にいのち捧げた勇士たちを、深甚なる敬意をもって想起し、その崇高なる努力と献身に感謝の誠を捧げるものである。
かの日々より半世紀、アジアは今、成長するアジアへと大きく変貌を遂げようとしている。そこにあるのは、新しいアジアの躍動であり、同時にアジア復権のドラマである。
人間と自然の調和、伝統と現代の共存、文化に深く根ざした経済、そして民族と民族の調和、アジアに特徴的なのは、こうした異質なものの「共生の世界」である。これこそ、長い歴史の中で培ってきた偉大な精神文化であり、その遺産が、今一斉に花開こうとしている。
この「共生の世界」を、地球的規模で実現していくのが、われらの課題である。かくしてアジアは、世界の平和と繁栄の懸け橋として、二十一世紀にむけての新しい使命を担わなければならない。
終戦五十年を機に、この「アジア共生の祭典」に集ったわれらは、今、それを
アジアの友人たちとともに、世界に向かって高らかに宣言するものである。
平成7年5月29日
○開式の辞
世紀とアジア
黛 敏郎
終戦五十周年国民委員会副会長
かつて岡倉天心は「アジアは一つ」と喝破しました。文明開化一色の明治初期にあって、欧米先進諸国の侵略にほしいままにされていたアジアに対し、これほど明確な評価と見識を示した言葉を我々は忘れることが出来ません。歴史をひもとけば、人類の文明の発祥に当たってアジアの果たした役割には驚くべきものがあります。終戦五十周年国民委員会副会長
しかるに、暗黒の中世を経てようやくにしてルネッサンスを迎えた西欧は、神を否定した余波をかって科学によって自然を支配し、力による収奪と近代合理主義に根ざした経営によって初めて手にした覇権をほしいままにアジア各地を侵食し、ついには、日本とタイ国、チベット、ネパール以外の総ての国々を植民地として支配する、忍従と屈辱の時代が到来するのです。
幸いにしてしかし、その歴史は今からちょうど半世紀前の一九四五年を以て終わりを告げました。一九四一年に、大東亜の解放と自立自衛を求めて、止むに止まれず欧米列強に戦いを挑んだ日本の壮挙は、武運つたなく敗れ去りはしましたが、結果として、全アジアすべての植民地は解放され、民族自立自営の大東亜共栄圏の理想が現実のものとなったことは、何人といえども否定し得ないでしょう。
一部には、そうした日本の行動を、事もあろうに私利私欲に根ざした侵略と決め付け、半世紀を経た今日に至ってもなお、それを反省し、謝罪の国会決議をせよと主張する人々もおりますが、既に五〇〇万に上る国民各位が、反対の署名を寄せている現実を見ても、それが暴挙であることば明らかです。
我々は、かつて我々と理想を共にし、共に戦ったアジアの国々の指導者たち、たとえば王精衛、チャンドラ・ボース、バー・モウ、ラウレル、スカルノ、シアヌーク、等々はもとより、一九四三年の大東亜共同宣言に参加してくれた各国代表と思想を同じくする後継者の人々が、現在もアジアの各地に数多く存在し、我々と同じ思いを抱き続けていることを信じて止まないのです。
二〇世紀は今まさに暮れなんとしています。さしも猛威を振るった共産主義は崩壊し、資本主義もまた飽和状態にあって、西欧近代文明は今、終焉を迎えようとしています。いま、目前に迫った二一世紀こそ、かつて豊かな大地から生まれ、自然と人間の「共生の原理」の上に築かれてきたアジアの文明が、アジアの思想が、アジアの心が、再び取り戻され、世界全人類の希望の星として輝き始める時代なのではないでしょうか。
このときに当たり、全アジアから多くの客人と同志を迎え、さきの大戦の尊い犠牲として、平和の礎となられた人々の御霊を追悼し、感謝と友好のための「アジア共生の祭典」を、今ここに開催し得たことは無上の喜びであり、深く感謝申し上げるところです。
○主催者式辞
アジアの信頼に応えて
加瀬 俊一
終戦五十周年国民委員会会長
終戦五十周年国民委員会会長
大東亜戦争は日米交渉の決裂によって起こりました。ルーズヴエルト大統領は、ナチスの猛攻によって苦戦する英国を救援するため欧州戦争に介入を急ぎたかったのですが、国民が反対するので、日本を挑発し受けて立つ形で、裏口の太平洋から参戦する方策をとりました。
日米交渉は悪名高いハル国務長官の覚書によって破綻したのですが、大統領は軍首脳を召集し「米国に過大な危険を招かずに、日本が先ず攻撃せざるを得ぬように仕向ける」ことに合意しました。しかも、ハル覚書を起草したのはH・Dホワイト財務次官であって、彼は共産党の秘密党員でした。
私は北米課長として徹夜の続く激務の間に開戦の詔勅を英訳しましたが、最後の修正は「マコトニ己ムヲ得ザルモノアリ アニ朕ガ志ナランヤ」の一句の追加でした。昭和天皇が指示されたのです。戦争回避は陛下の悲願でした。一九四三年十一月、東京に大束亜会議が開催され、アジアの指導者が参集しました。この時、日本は重光外相の発意によって、戦争目的を当初の「日本の自衛」から「アジア民族の解放」に拡大しました。
「日本の自衛」では日本だけの問題に限定され、仮に敗戦になればそれでおしまいになります。「アジア民族の解放」に変えれば、勝敗に関係なく、歴史的宿題として残り、また、解放が達成されたと認定すれば、戦争目的が実現したのだから平和が到来することになろう、故に、この変更は、敵国米英に対する高度の平和攻勢でもありました。
大束亜共同宣言の草案は私が英文で書きました。この時、米英両国は既に大西洋憲章を公表し、間もなくカイロ会議を開くらしかったのです。ですから、大東亜共同宣言はこれに対応する歴史的使命を帯びていたのです。
共同宣言の末項は「万邦卜交誼ヲ篤ウシテ人種差別ヲ撤廃シアマネク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運二貢献ス」と述べています。このような宣言を提唱するからには、日本の内政も整頓せねばなりません。それが重光と私の窮極の訴えでした。一九五五年四月、インドネシアのバンドンでAA(アジア・アフリカ)会議が開かれ、新興の意気に燃える二十九カ国代表が参集しました。日本も招かれ、私は代表のひとりとして出席しました。日本が独立を回復して初めて参加する国際会議です。アジアは戦場でしたから、私は多少の危倶を抱きましたが、各国代表は、日本がアジア解放のために戦ったおかげで独立できたのだ、と異口同音に熱烈に感謝していました。多年の植民地支配は彼らの涙痕になってうずいていたのです。
それにしても、日本では一顧もされぬ大東亜共同宣言が、AA諸国民の胸に黄金の文字になって刻まれているのを知って感無量でした。なお、会議が採択したバンドン宣言十項目は、日本が提案し周恩来が支持して成立した経緯があります。
大戦前に六十九だった独立国は、いま、百九十一国にふえていますが、日本が提唱した民族解放が起爆剤になったといえましょう。
先般、マハティール・マレーシア首相は村山総理に「五十年も前のことを謝り続けるのは理解できぬ。それよりも将来に向って進むべきだ」と苦言を呈しました。フィリピン・タイの要人も同趣旨のことを発言しています。
幸にして、アジアは興隆しつつありますが、その原動力は日本です。アジアの友邦が日本の国連安保常任理事国就任を支持するのも、日本を信頼し日本を彼らの代表とみるからです。この信頼に応えねば日本に将来はありません。アジア共生の理想の実現に向ってともに邁進しょうではありませんか。
○議員連盟代表挨拶
大東亜戦争とアジア解放
奥野 誠亮
終戦五十周年国会議員連盟会長
終戦五十周年国会議員連盟会長
終戦五十年という節目の年に当り、私達の悲願とも云うべき、アジアに生きる者が共に集まり、追悼・感謝・友好の大会の開かれますことは誠に嬉しいことであります。
私は自由民主党終戦五十周年国会議員連盟の会長をつとめる者でありますが、これからなされようとする国会決議の内容について、心ある人達に大きな不安をまき起こしております。そのようなことのないようにしようとして生まれた議員連盟であります。
我国で終戦五十年という場合の戦いは、大東亜戦争であると考えております。当時、日本は経済封鎖をうけ、ABCDライン包囲網の中におかれた上、米国よりは支那大陸その他から、警察官を含め全軍隊引揚げの要求をつきつけられていました。
米英と戦うのでありますから、米英が侵略したアジアの植民地が戦場にならざるを得ませんが、日本はアジアの国々と戦ったのではなく、米英と戦ったのです。
結果として日本は戦いに敗れましたが、アジアの国々は白人の植民地から立ち上がって、すべて独立を果たしました。その勢いはアフリカその他にも及びました。今や白人優位の世界の秩序は崩れ人種平等の世界になりつつあります。私達の先人の努力が実ったものとして、このことを誇りに思いますと共に、靖国のみたまに感謝しているものであります。
我国では一三〇〇年の昔、聖徳太子が示された十七候の憲法の冒頭第一候に「和を以て貴しとなす」と書かれています。日本書紀には「八紘一宇」という言葉が出て参りますが、世界が一つの家のように平和であることを願いとしておりました。また、その人の生前の如何を問わず、死者の霊を慰めることを大切にする国柄であります。
私達はこのような日本の伝統の心を大切にして行きたいと思います。とくにアジアに生きるお互いが相互の理解を深め、協力し合い、安定した社会を築くことにより、これを更に世界の平和につなげて行きたいのであります。重ねて「アジア共生の祭典」の企画に感謝し、この祭典がアジアの団結とその発展に寄与して参りますことを祈ってご挨拶を終ります。
○議員連盟代表挨拶
友人への感謝と誇り
永野 茂門
正しい歴史を伝える国会議員連盟幹事長
正しい歴史を伝える国会議員連盟幹事長
私は、本式典の後援団体である「正しい歴史を伝える国会議員連盟」の小沢辰男会長に代わってご挨拶申し上げます。
思えば本年は先の大戦が終結して五十年に当たります。この年に当たって私どもは、戦場となった各地の人々、千曳を交えた諸国の人々、そして我が日本国民将兵など、戦争の犠牲となられた全ての人々に対して、心より追悼の誠を捧げるものであります。
そして、戦い敗れた我が国は廃墟の中から立ち上がり、再び国際社会で生きて行く努力を傾注しました。今日我が国がこのような繁栄を構築することが出来たのも、ひとえに国際社会のあたたかい友情がさしのべられたからであります。私たちは、私たちが享受しているこの繁栄を与えてくれた多くの友人たちに、心からの感謝を表するものであります。
五十年前、私たちが目指したアジアの理想は、残念ながら達成することは出来ませんでしたが、ある意味において我が国の目指した理想とは、今日のような、アジア各国がそれぞれの理想を持って繁栄した国を築き上げることでもありました。それが戦後五十年を経て、それぞれに独立を達成し、見事なまでに立派な国を作り上げてこられました。そのご努力と成果は、私たちアジアの友人として大いに誇りに思うところであります。
さて、戦後五十年を迎えた今日、私たちが果たさなければならないことは、これら諸国との一層の友好増進と連帯の絆の強化であると思います。私たちは、戦争が再び世界を悲劇に陥れないよう歴史の教訓に学び、我が国の正しい歴史を後世に伝える責務を感じて議員連盟を設立致しましたが、正しく歴史を理解し、共に手を携えて来るべき新世紀を迎えなければなりません。
その意味において、追悼と感謝を捧げ、アジアの友好と共生、共存を訴えるこの式典が、将来にわたって日本とアジア各国との友好を深め、ひいては世界から戦争の悲劇をなくす有力な端緒となりますことを強く祈念してご挨拶と致します。
○アジア各国代表挨拶・タイ王国
戦争の反省と
日本への感謝
日本への感謝
タナット・コーマン
元内閣副首相
本日この会場にお集まりの皆様、私は第二次世界大戦終結五十周年を記念するこの歴史的な式典に参加することができまして大変喜んでおりますと共に光栄に感じております。元内閣副首相
まず私はタイの国民を代表致しまして、全世界にわたってホロコーストともいうべきであった大戦中、戦場あるいは銃後にあって命を捧げた何千万の人々に対して深い敬意の意を表したいと思います。
今、ここで立ち止まって全世界にわたって未曾有の破壊をもたらした人類の過去の行動様式を振り返り、あのような惨劇を再び招くことがないように皆様と共に願いたいと思います。
人類があのように断崖絶壁から飛び降りたというのは、諸国の責任ある地位に就いていた人々による恐ろしい誤算によるものでした。もっと慎重にもっと最深の注意を払えば避けられたものだったと思います。
そして強い力をもっていた一部の人々が相手に耐え難い圧迫を加えたことが大きな原因でした。相手に息をする余裕も与えずに追い詰めてしまったことが原因でした。私たちはこのような深く嘆くべき過去の歴史から貴重な教訓を学び、過ちを再び起こさないことが必要です。
五十年間を振り返ると先の戦争が残酷なものであったにも拘わらず、善なるものも生みました。あの戦争によって世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは日本が勇戦してくれたお陰です。新しい多くの独立国が火の中から不死鳥のように姿を現しましたが、誰に感謝を捧げるべきかばあまりにも明白です。
これからは新しい国も古い国も互いに手をしっかりと結び合って平和を強化し暴力によってさいなまされている諸国民を苦しみから救おうと努めなければなりません。
私はこのような信念から二十八年前にアセアン(東南アジア諸国連合)をバンコクにおいて創設するのに力を尽くしました。東南アジアの国々がアジアを団結させることによって恒久的な平和と安定をもたらすのに努めようとしてきました。
私は敬度な仏教徒です。そして私はカルマ(業の法則)を信じておりまして、もし善行を行えば必ずよい結果が自分に戻ってきて、或いは誤った行動をとれば必ず悪い結果が自分に戻ってくるということを信じて参りました。そこで人は自分に対してそうしてほしいと思っていることを人に対してもしなければならないということになります。
もし正義と公正な心が勝利すれば、そして利己主義を消し去ることができれば人類は恒久的な平和を享受することができるだろうと考えます。
今日でも戦争と抗争がなくなっていません。特に経済・文化摩擦が激しくなろうとしております。私たち平和のために一層力を振り絞り、相互理解、相互間の愛情或いは友情の強い絆を強めようと努力をしなければなりません。今、私の目は第二次世界大戦を越えて未来を見つめております。私たちは大きな戦争或いは小さな戦争を問わず、もう戦争をやめなければなりません。そして私の祈りはすべての戦争に終止符を打ち、特にここで核兵器の廃絶を実現するということを祈っております。
○アジア各国代表挨拶・マレーシア
「ココロユタカナクニ」に
サイド・フセイン・アラタス
マラヤ大学副学長
「ニッポンノミナサン」(日本語で)歴史は死んだものから生きているものへの忠告であるといえます。五十年前に第二次世界大戦が終わりました。死者からもたらされている教訓はあの戦争という、大きな過ちを繰り返してはならない−その原因をよく考えるということです。マラヤ大学副学長
第一の教訓は、そのときの指導的立場にいる人たちについて完全に信頼してはならないということです。第二の教訓は、国々がお互いに理解し合わなければならないことです。私はイスラム教徒ですからコーランの教えによれば、神が違う国々あるいは違う部族をお造りになったというのは、お互いに理解し合い、そして善行を施すために競い合う、そういう目的をもって違う人々や国々を造ったということです。
前の戦争で命を捧げた人々−この事実は大きな意味をもっています。あの犠牲のためにアジアとアフリカという二つの巨大な大陸の人々が解放され、独立を獲得することができました。今、私たちは自信と大きな共感を分かち合いながら未来を眺めることができます。
私は先の戦争が終わったときには十六歳でした。東南アジアで今世紀に入りましてから、最も重要なことは独立への大きな運動でした。そして先の戦争にあたって日本の皆様が私たちの独立を大きく助けてくださいました。
まず日本の皆様がしてくださった最も重要なことは、東南アジアの人々に桝めて自信というものをもたらしたということです。そして束南アジアの人々がどのようにして自分たちで自分たちを治める自治を行い、また一つの国として自分たちを管理してゆくか、 そういうことも教えてくださいました。
インドネシアをとりますと、オランダの植民地主義者たちによって投獄されていた独立の闘士たちを日本は解放してくれました。そして今日、日本にはもうひとつの通が用意されております。今日、アジアの諸国民は日本を手本にしてやっていこうと考えています。
しかし、ここで皆様に申し上げたいことは日本はアジアの教師であり、そして私たちに自信をもつことを敢えてくれたのに、日本の国民自身が自信を失いつつあるように見えることです。皆さん、ぜひ自信を取り戻してください。日本が「ココロユタカナクニ」(日本語で)にもう一度なっていただきたいと思います。
ここで私が先の戦争中に体験したことを申し上げたいと思います。私は戦争中、ジャバにおりましたが、そのとき、ひとりの日本の兵隊さんが私たちのところにやってきました。私はその若い兵隊さんの顔を未だによく覚えています。二十代のはじめだったでしょう。礼儀が非常に正しく、また大変に親切でした。
しかし、この兵隊さんはインドネシア語ができなかったし、私たちは日本 語ができなかったので、お互いに言葉 で意思を通じることができなかったも のでした。そしてこの兵隊さんはいろいろ手まねをしていました。私はしばらくしてから、日本語を私に教えようとしているのかなと思いました。そして座の若い兵隊さんに会ったときから私は日本を理解しようということに努めて参りました。
私がそのときに若い兵隊さんから心を打たれたのは、戦争を戦い、いつ死ぬかわからないような身の上であるにも拘わらず日本語と日本の文化というものを私たちに伝えようとした、その情熱に感動したことを覚えています。
あの若い兵士は何も日本製のオートバイとかテレビを私たちに押し付けようとはしていませんでした。この兵隊さんは日本と東南アジアの地域の間の心の交流を求めていました。この兵隊さんは数日しか止まっていませんでした。ですからその後どうなったのかわかりません。しかし、もしこの兵隊さんが戦死したとすれば、彼の死は大変に重い意味をもっていたといえます。
ご挨拶というのはあまり長くすべきものではないと思います。「ニッポンノミナサマ、ガンバッテクダサイ」(日本語で)
○アジア各国代表挨拶・インドネシア共和国
アジアへの回帰を
サイデマン・スリヨハデイブロジョ
外務省上級大使
皆様、今日、第二次世界大戦が終結致しましてから五十周年を記念する祭典にお招きいただきまして、わが祖国インドネシアを代表してここでご挨拶するのを大変うれしく思っています。外務省上級大使
第二次世界大戦が終わりましてから、今年で五十年が過ぎました。この戦争は多大な悲しみと苦しみとそして大量の死と破壊をもたらしました。しかし、この戦争は何億人という世界の人々に対して新しい輝かしい世界への扉を開くことになりました。それは多くの人々が自由を獲得し、また独立を手にすることができるようになったからです。そしてインドネシアもインドネシア共和国という主権国家を打ち立てることができました。
これらの植民地となっていた人々の中でも、特に若い人々が大きな犠牲を払い、また独立のために命を捧げました。そして、第二次世界大戦中、あるいはその直後に植民地に住んでいた人々だけではなく、外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。
私の国インドネシアをとりますと、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の若者たちがそのために命を犠牲にしてくれました。そこで、今日の式典におきまして私たちの独立のために命を捧げてくれたこれらの若者たちを偲びたいと思います。
しかし、私たちは政治的な独立を獲得したものの、旧植民地時代がもたらした、ひどい貧しさやあるいは後進性からすぐに脱却して豊かさと進歩の恩恵に浴することができないできました。西洋諸国による帝国主義と植民地主義の支配に苦しんだ諸国が受けた傷はあまりにも大きなものであって、そんなに短時間ではこの傷をいやすことはできないでおります。
そこで私たちはこういった国々に対して外から手を差し伸べねばなりません。今や日本は世界で二番‖に豊かな国です。私たちは口本の肋けをほしいということをここで訴えたいと思います。これまで日本は開発途上国、あるいは貧しい国々が発展するのに暖かい手を伸ばしてくれました。しかし、日本はもっと大きな力を発揮することができると信じております。
日本は西洋諸国の一員として認められたいといったような行動をとってきましたけれども、日本は地理的に言ってアジア・アフリカの中の一国であるということを認識しなければならないと思います。勿論、円本がこれまで過去の歴史において西側諸国の一員となろうとして努力をしてきたということは十分理解できることです。
しかし今日とこれから到来する世界は過去の世界と全く違うものになるでしよう。もし日本がアジア・アフリカの一国であるという精神を取り戻すとすれば日本は全世界の大部分にあたるアジア・アフリカの貧しい人々から尊敬され、そして信頼されることになると思います。私は日本国民がこのような大いなる挑戦に向かって立ち上がってくれるものと確信をしております。
○閉式の辞
アジアの友人と共に<
佐藤 和男
終戦五十周年国民委員会副会長
半世紀前に日本が戦った大東亜戦争は、多くの尊い人命を犠牲にした悲劇でありましたが、しかし、そのような代償の上に、今日の日本とアジアの発展と繁栄が可能とされたことは、否定できません。終戦五十周年国民委員会副会長
来賓のアジア諸国代表の方々のお言葉は、戦後連合軍の占領政策によって歪曲され混乱させられた歴史観によって悩まされている日本国民にとって、まことに大いなるなぐさめであり、かつ大いなる激励であります。
敗戦に伴う失望落胆と悲哀の底に沈んでいた日本国民にとって、サンフランシスコ対日講和会議でのスリランカ(当時セイロン)代表のジュニウス・R・ジャヤワルダナ蔵相の次の発言は、日本国民が誇りと自信と勇気を回復して前進する上に、大きく寄与しました。
アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」 当時として、何という探い理解と愛情のこもった日本国民へのメッセージであったことでしょう。ここに示され
たようなアジア諸国民の友情とはげましと協力によって、日本は復興し、少なくとも経済面では大国と呼ばれるようになったのです。
われわれ日本国民は、ジャヤワルダナ氏の演説に代表されるアジアの諸友邦の熱い友情にあらためて心からの感謝を捧げるとともに、戦後ム十年を経た現在、アジア諸国民の日本に寄せるますます大きくなる期待と希望とに真実に応えることができるように、思いを新たにし、行動においてそれを貝現してゆきたいと覚悟しております。このことは、この会場に笑まったすべての日本国民の共通の思いであると信じます。
アジアの友人たちよ、本当に有難う。これから一緒に前進しましょう。
[特別インタビュー@]インドネシア9>
祭典にアジアの中の日本を感じた!
サイデマン閣下
− アジア共生の祭典のご感想を。
昨日は、日本人というのはアジアなんだなあと思いながら一日暮らしました。駐日大使として赴任していた頃(七九〜八三年)の日本人は西洋人にほめられたい、西洋人の一員になりたい、という態度がありありと感じられてなんともいえない気持ちでした。ところが昨日会った人たちは皆が皆、アジア人であると感じられてとても愉快でした。
かつて日本は我々に自信と敢闘精神を教えてくれました。日本軍政の最大の功績はベタを創設したことですが、インドネシア語を普及したことも多種多様なインドネシアの団結に偉大な役割を果たしました。
日本に学べというのは、日露戦争以降今日まで続いているアジアの伝統的な姿勢です。独立運動の指導者、スカルノとハッタが演説のなかで繰り返し言ったことは、一九〇五年の日露戦争における日本の勝利についてでした。これこそ我々が白人に勝てる証明だと。独立を勝ち取った後の我々は植民地にさせられていたことの反省として、科学技術と人材の養成を克服すべき課題として掲げています。その際、学ぶべき日本とは欧米化する日本じゃない。欧米に負けないように科学技術文明を高めつつも、固有の文化を失わなかった日本にこそ我々は学びたいのです。
各国の大使は日本に赴任すると、皇居にご挨拶に伺います。私は昭和天皇と皇太子殿下(今の天皇陛下)にお会いしたとき、こんなに高い地位の方がなんと謙遜なご姿勢なのだろうと、我々のところまで降りてきて下さって我々を理解しょうとなさるご姿勢に非常な感銘を受けました。各国の大使も皆同じような体験をしています。感動すべき、健全で健やかな日本ここにありと今でもそのときのことは心に深く刻まれています。(平成七年五月三十日)
[特別インタビューA]チベット
日本は世界にもっと発言を
テンジン・テトン閣下
オブザーバー参加のチベットからは、祭典直前までチベット政府の首相を務めておられたテンジン・テトン閣下がご出席。祭典前夜の歓迎レセプションでは挨拶に立たれた。祭典後、その感想を「緻密な運営に日本らしさを感じた」と述べられた。−チベットと日本の関係について。
日本とチベットの両民族は同じ中央アジアに起源をもつという説もあり、言語の構造も似ています。共に仏教思想の影響が大きい。今回の祭典に関連したところでは第二次大戦時、連合国がチベット経由で武器を中国へ渡したいと要求してきたとき、チベット政府はそれを認めず中立を保ちました。チベットは日本の味方或いは少なくとも日本に対して同情的だったのです。
また、これから近代化と文化、伝統を共存させていきたいという希望をもつ我がチベットにとって日本は近代化もしながら、同時に、文化、伝統あるいは愛国心などを残している手本の国として映っています。そして日本では天皇陛下、チベットではダライ・ラマという存在は、伝統文化と近代化の双方を両立させる要となっています。ダライ・ラマ法王は釈尊の弟子として釈尊の慈悲を表す観世音菩薩の生まれ変わりとチベット人は信じています。
日本には勇気をもって世界の問題に発言していただきたい。こと中国に対しては、遠慮し過ぎのように思います。
それは実際の力に比してあまりにもアンバランスではないでしょうか。中国のチベット人への弾圧が人道にもとる行為であることは明らかです。ただ、私たちはやみくむに中国をたたくべきだというのではなく、仏教的な思想に則り、慈悲の心に中国を改心させるというやり方を望んでいます。最近では核実験に抗議して日本は援助を停止しましたが、これはよかったと思っています。(平成七年五月二八日)
戦争謝罪の
国会決議問題を振り返って
国会決議問題を振り返って
黛 敏郎
さる六月九日夜、衆議院において戦後五十年の国会決議が可決されました。決議は、衆議院の全議員(五百二名)の過半数にも満たず、内容も我が国の「植民地支配」と「侵略的行為」を間接的表現であるが反省するという、偏った歴史評価を下し、立法府としての権能を逸脱する問題多い結果となりました。一昨年夏、非自民の細川連立内閣の合意事項に出てきた戦争謝罪の国会決議の阻止のため、私共は二カ年にわたり国民運動を進めてきました。特に昨年来、猛暑の中で集められた請願署名は、わずか半年の間に五百万を達成し、本年冒頭に私共の意志を国会に表明しました。その結果、国会請願に必要な紹介議員は、与野党あわせて二八五名が賛同。時を同じくして自民党、新進党に私共と目標を同じくする議員連盟も設立されました。
私共はこうした国民世論を背景として、一方では度重なる歴史的、理論的説得により、自民発から「一方的な歴史の断罪は行わない」旨の公約を勝ち取りました。この公約は、最後の最後まで「自民党を拘束」(幹部)しました。その結果、細川連立内閣以来、各党の公理のようになっていた「謝罪・反省・不戦」 のうち、「謝罪」と「不戦」が消え、一時的には村山首相自身が「追悼・平和決議」を提唱したこともありました。最終的には玉虫色の内容となりましたが、比較的穏やかな「反省」決議に圧し止められ、新たに「追悼の誠を捧げる」と「歴史観の相違を乗り越え」という主旨が盛り込まれました。
また、五月二十九日開催した一万人の「アジア共生の祭典」の絶妙な開催効果もありました。与党幹部は、四月早々に「国会決議は、この祭典を終えてから」と明言し、五月下旬まで決議作業を後送りにしました。結果的に祭典が終わってから衆議院決議まで、わずか十日間という慌ただしさの中で、与党間の決議文案が練られ、野党の了解を得る時間のないまま、過半数に満たない衆議院での強行採択、参議院の見送りにつながります。
このように国民運動は、決議にはやる与党三党に警鐘を乱打しつつ、内容といい、その方法といい、最悪の事態は避けられたという意味では一定の効果を上げたと言えます。皆様の獅子奮迅のご努力に深甚の敬意を表する次第です。
しかしながら、「一方的に断罪しない」と言った自民党の公約が破られた事実は厳然と残っています。変質的な社会党のイデオロギーに同調したことによって、自民党は社会党と歴史観を共有しました。これは、立党の理念である歴史・伝統を守るという保守主義の精神の放棄であり、自民党が「限りなく社会党化」した結果といわねばなりません。金権体質で汚れた自民党は、今度は守るべき「魂」をも売り渡したのでしょうか。我が国柄を守るのは自民党において外ない、との私共の期待は、完全に裏切られたと言わざるをえません。公約を破棄した自民党は、その責を十分負うべきであります。また私共は、従来の自民党依存型の国民運動についても、根本的に検討を加える時期が到来していると総括すべきでしょう。
私は、常々、今の自社連立政権の不健康性を指摘し、過去のいさかいを越えて、かつての自民党の有志が再結束し、保・保連立内閣を樹立すべきだと訴えて来ました。自民党が社会党と連立を組む限りにおいて、こうした問題は再び起こり得るからです。国内外の危急があいついでいるこの時期、健全保守による救国連立政権こそ今望まれているのではないでしょうか。(『日本の息吹』平成7年7月号)