インド国交樹立五十周年を迎えて
日印友好議員連盟会長 中山 太郎
本年は、日本とインドが国交を樹立しまして五十周年という記念すべき年にあたります。両国は、悠久の長きに渡る奥深い文化交流を基盤とし、戦後も友好的な関係を築き、世界やアジアの平和と発展に貢献してきました。
日本・インド国交樹立五十周年記念日である四月二十八日に合わせまして、私は、小泉総理大臣特使として、日印友好議員連盟の議員らとともにインドを訪問しました。バジバイ・インド首相を表敬訪問した際に、総理大臣親書を手渡し、平成十三年十二月十日に発表されました「日印共同宣言」に基づき、両国関係の発展における幅と深みの醸成、及びグローバルな課題への挑戦という二つの柱を中心に、グローバル・パートナーシップを強化していきたい意向を伝えました。
それに対しインド側は、日本とインドの友好と協力関係の一層の発展に強い期待感を表明するとともに、アジアの主要な民主主義国である両国国会議員の交流の重要性を指摘され、この度の私どもの来訪がこれに大きく貢献するものであるとの歓迎の意を述べられました。
また、四月二十九日に開催されました日本・インド国交樹立五十周年記念式典には、インドの各界から多数の有力者が出席し、両国から招かれた八百名の招待者とともに、盛大な式典が開催されました。それに合わせまして、議員連盟からの記念の楯と、日本側が発行した記念切手の贈呈式も行われました。
日本とインドの関係は、平成十二年八月の森総理大臣(当時)のインド訪問、及び平成十三年十二月のバジバイ首相の訪日を経て一層緊密化しつつあります。インドはたいへんな親日国で、昭和天皇の大喪の礼に際しまして三日間の喪に服し、広島に原爆が投下された日には、国会において黙祷がささげられたと聞いています。
この度の日本・インド国交樹立五十周年を、広範な分野での人と人との幅広い交流を通じ、相互理解を深め、両国のパートナーシップのための確固たる基盤を築く好機としたいと思います。
南アジアは面積で欧州に匹敵、人口はそれに倍し、日本にとって地政学的にも重要な位置を占める。現在中国は経済成長を上回る軍事力の増強を続けているが、将来のアジアの均衡ある発展と安定の為には、バランス・オブ・パワーとしての南アジア、特にインドの存在は重要である。日本はカシミール問題に対しても、安定の為の努力を継続すべきであろう。
南アジアは、日本にとって石油シーレーンの要所であり、将来の中央アジアの石油、ガスへのアクセスでもある。七月、インド国防相が来日し、我国との防衛協力の申入れが報じられたが、協力発足の絶好の機会ではないか。日本船への海賊の捕獲がインド海軍に依って行われた事実があり、ASEANに連なるシーレーンの防衛協力は、極めて現実的な課題である。
インドはソフトウエア先進国と呼ばれている。スリランカに進出した日本企業の業績も順調と聞く。嘗て日本が協力して遂に世界の成長センターとなった東アジアの次の成長の候補は南アジア、特にインドではないだろうか。こうした協力こそ日本の志であるべきだろう。
作家の堀田善衛はインドを、自己主張を精神生活の第一の基礎とする文化圏と呼び、中根千枝は横社会と名付けた。強い文化の差、交渉相手としての手強さもあるが、歴史的文化的に深い繋がりを持ち親日的な南アジアとの関係を重視した国策を樹立すべきだろう。
その説の延長線上で考へてみると、それが日本とインドとの関係の現在のあり方を言ひ表してみる上でのよいヒントになる。即ち日本の庶民は、政治的にも文化的にも平生あまり嫁が深い存在ではない様に思はれてゐるインドについて、実は意外なほど多くの固有名詞を知つてゐるからである。戦前の、少し古いところではアジアで初めてのノーベル文学賞受賞者である詩人タゴール、次いで新宿の中村屋の庇護を受けたことで知られる独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース、同名だが政治的にはより重要な存在となつた自由インド仮政府主席のスバス・チャンドラ・ボース、又彼の初めの師であつたマハトマ・ガンディーはその非暴力的抵抗運動の標梼によつて一時は日本でも聖者の様に扱はれてゐた。戦後にはネル一首相と、彼が日本に贈つてくれた象と同名のその愛娘インディラ・ガンディ一首相の政治的敏腕は高い評価をかち得てゐた。そして極東国際軍事裁判に於いて唯一人、本来の国際法上の公正の観点から全被告無罪の判決文を著したラダ・ピノート・パル判事がゐる。
かうしてみると、日本人がインドといふ囲の歴史と文化の諸相をより深く、正しく知らうとする手がかりはいくらでもある様に見える。本年の記念年をよき機会として、インドをよりよく知るための縁故を十分に活用し、又ふやしてゆくことが両国にとつての幸せであらう、と素朴に考へてゐるところである。
帰国後もインドには毎年足を運んでいる。メディアの一面的情報でなく、この目で直接インドの実相を確かめておく必要を感じたためである。日本のマスメディアのインド情報を私はかねて 「火山型報道」 と呼んでいる。人畜に異常な災害をもたらす事件だけを大きく扱う傾向があるからだ。長い間、インドはいつまで経っても発展しない、牛と蛇遣いとカーストの国という固定観念が多くの日本人のおつむを占めてきたが、一九九一年に経済自由化に踏み切ってからのインドの変化は激しいものがある。最近では急にインドのIT大国ぶりがもてはやされることになったが、長短いずれにせよ、特殊な部分だけが切り出されて、これこそがインドのすべてでございと展示するような報道に振り回されることからは、早く卒業したいものである。
インドは南アジアにおける圧倒的な超大国だ。しかし長らく続いた冷戦期、とくに一九六〇年代以降の日本では、インドに関する過小評価が支配的であった。非同盟を掲げながら親ソに傾斜したインドと、アメリカ一辺倒の日本では、冷戦構造下では別陣営の国であった。経済的にも政治的にも日印両国は疎遠であり、一九五〇年代に抱かれていたインドに対する日本人の敬愛の念は、ほとんど消滅していた。
しかしこの十年、国際環境は大きく変化した。今や我々は冷戦のしがらみや経済至上主義的価値観から脱却して、新たな発想で両国の関係を考える時に到っている。二〇〇〇年の夏に訪印した森首相は、日印関係は 「グローバルパートナーシップ」 の時を迎えたと述べた。これをいかにして内実のあるものにするかが、当面我々の喫緊の課題である。
ヨーロッパにおいては、ソ連が解体したことによって冷戦が終わり、平和が建った。しかし、アジアは全体主義国の挑戟を受けている。アジアの未来は、日本とインドが協力することを中核として、自由な海洋アジア諸国が結集することによって確かなものとなる。
ところが、日本とインドは同じ民主主義国であり、宗教的な価値観を分かち合いながら、冷戦下の歴史の経緯から、不幸にして関係が疎遠になっていた。今、インドの十億の民は旺盛な経済を遂げつつある。インドが経済的に発展して、国力を増伸することが日本の国益になる。
日本とインドは、互に精神性がきわめて高い国である。両国民が交流を深めることによって学び合い、未来を共有することがアジアの興隆にとって強く望まれる。
だがインドの経済改革は当初の二年間に内外投資と貿易の自由化を通じてインド経済に目覚ましい活性化をもたらし、日本を含む国際社会の注目を集めたものの、その後は多くの課題を積み残したまま停滞の様相を口重している。日本の対印直接投資や輸出入額の対世界総額に占める微々たる比率に大きな改善が見られないのもこのためである。
改革を停滞させている直接の原因は、インド国内における政治情勢の流動化にある。残された改革の課題は労働関係法令の合理化、国有企業の民営化、金融改革、農業部門の合理化、補助金政策の見直し等、特に労働界の抵抗が強く、遂行のために強力な政治的指導力を必要とするものばかりである。しかるに一九九六年の総選挙でコングレス党が敗れて以来、インドでは下院議席の過半数はおろか半数に近い議席でさえ単独で制する政党が姿を消し、多数の政党の連立や閣外協力による政権樹立が恒常化してしまった観がある。この状況の下では、政府が組織労働者を始めとする既得権益層の抵抗を排して、改革の遂行を進める上に必要な政治力を発揮することは困難である。しかも連立政権の中核を成すBIPは、市場開放や経済自由化に対して基本的に慎重な態度を崩していない。
当初の二年間に実現を見た自由化措置が維持されており、現政権も「改革の第二波」を標模し、さらなる改革に前向きの姿勢を示していることは評価される。しかしインド経済の一層の活性化はもとより、日印経済関係の顕著な増進も残された改革がどこまで実際に進捗するかにかかっているのである。
さらに日印親善のために貢献した人々としては、インド人側からは、第二次世界大戦中日本に亡命してインド独立運動を始めたラースビハリ・ボースとか、インド国民軍を創設し日本軍とともに英国軍と戦ったスパーシユ・チャンドラ・ボース、また戟後極東国際軍事裁判において日本の立場を弁護したラーダピノード・パール判事などの名が浮かんでくるし、日本人の側からはタゴールと親交があり、『東洋の理想』 を著した岡倉天心を始め横山大観・菱田春草などの芸術家たち、ガンジーと親交があり、日本に伝来された仏教のインドへの還流を願っていた藤井日蓮師などの名が思い出されてくる。
こうした日印文化交流の歴史に関しては、『日本とインド交流の歴史』 (山崎利男他編、一九九三年) が簡潔で的確な情報を提供してくれているが、必ずしも完全なものではない。そこで、この記念誌に一文を寄せるに当たり、同書に洩れている重要な人物の名を記し、日印文化交流史のさらなる調査研究を進めていく際の参考資料になればと願うものである。
まず、ラーマクリシュナ・ミッションを創設したスワミ・ヴィヴューカナンダ師で、一人九三年米国シカゴで開かれた世界宗教者会議において、ヒンドゥー教の基礎をなすヴューダーンタ哲学の普遍性を世界中の諸宗教代表者に認識させた聖者であるが、米国に向かう途中日本に寄った時、日本の文化と当時の日本人に深い感動を覚え、インドにいる自分の弟子達に、これからは西洋よりもむしろ日本から多くのものを学ぶべしと指示した書簡を送っている。同師の教えや思想が当時のインド人をして自国の伝統文化の価値を再認識させ、独立運動家達の精神的支柱となったことを思えば、彼の書簡は多くのインド人の潜在意識の中に、日本人や日本文化に対する親近感と敬意と植え付ける結果となっているのではなかろうか。
次に、かつて反英インド独立運動の闘士であり、のちに精神革命の指導者となったシュリー・オーロビンド・ゴーシュという聖者がいるが、同師を助けオーロビンド・アシェラムを大いに発展させたミラ・リチャードというフランス人マザーは、日本を訪れて三年間も滞在し、茶道や華道や座禅など日本の伝統的・精神的文化を深く愛好して学習実践していることから、インドのボンデイ
ツチャリ市にあるアシユラムでの指導を通じ、日本の精神文化を多くのインド人の心の中に無意識的に伝達していると言えるのではなかろうか。
また江戸末期の国学者である平田篤胤は、仏教嫌いの極めて保守的な学者という熔印を押されているようであるが、本当は実証的な研究を重んじる優れた人文学看で、彼の著した 『印度蔵誌』 は当時人手可能なあらゆる資料を駆使したヒンドゥ教の卓越した研究入門書となっており、中世において梵語 (サンスクリット語)の音韻配列を取り入れ、日本語の五十音図を編みだしたと言われる空海(弘法大師)の文化的貢献とともに、日本人のインド文化研究者にとって忘れてはならぬ人物である。
最後に挙げる木村日毅は、戦前インドの伝統仏教を研究するため、東ベンガル地方のチッタゴン市に滞在した仏教学者であるが、インド東部の大言語であるベンガル語(詩人タゴールの母語であり、現在の話者人口は約一億三千万人) をマスターした最初の日本人で、かつインドの大学で日本語と日本文化を教えた最初の日本人教師として記憶されるべき人物である。
大統領はそのメッセージで 「極めて緊迫した国際政治情勢下であったが、博士の判決は勝利者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐とを退け、それよりも平和と国家間の和解と親善のため努力すべきことを説いた感銘深い呼び掛けであった」と述べておられます。
また大使は祝辞の中で 「パール博士の判決の真髄は、いかなる戦勝国も既に存在する国際法を超越して新しい犯罪の定義をつくり、それにより軍事攻撃に関わった被告を裁くことはその権限を逸脱しているという法理である」と述べ、パール博士の反対判決とその後の行動は、戦後のインドと日本の親善関係を発展させる重要な要素となっていること。そしてインドはその後、日本の復興のために多くの支援協力「原爆投下に対する非難」、「戟時賠償の放棄」、「単独の平和条約締結」、「アジア大会参加への協力」などをしてきた。
然し他の世界での趨勢が、この尊敬・連帯・友好関係を揺さぶって、充分な友好と協力関係が築けずにいることを残念に思うと述べられた後、両国間には、敵対や、領土的、歴史的、文化的、宗教的な争いの過去が全くないのだから、今こそ友好の関係を深くし提携協力を強化して、アジアの安全と平和の維持に、互いにその重要な役割を果たしてゆこうと呼びかけられました。
ナラヤナン大統領はメッセージの後半で、「パール博士はインドと日本との友好と理解のシンボルになっている」と言われました。
東京裁判史観から脱却し、日本人の誇りを回復せよとの博士の激励に、今こそ我々日本人は応えねばならないと思います。
タゴールは人間宗教の本質とも言うべき眞・善・美を教育の場で実践した。「自ら考え行動して学ぶ」という教育の姿勢は自然環境の中で実施され、秀才教育でなくして 「無用な物の価値」を見出し、三千年のインド精神の最も普遍な精髄を新生活の中に新しく生かすことだった。学生の個性を伸ばし、共同生活の訓練を通して草木の生長と共に人間の心身を養うのである。
天はタゴールの老衰を許さなかった。七十を超えた彼は、文筆を絵筆に持ちかえて残された十三年の生涯で、三千枚の自由画を画いた。
五才で詩を感じ、十四才で帝劇を書き、見神開惜したこの詩人はあらゆる人間の弱点を知り尽し、苦悩の火で身を焼き、「永遠の愛」 に見覚め、心の慰安を創作音楽に托した。二千以上の作曲をした彼は言葉の絶え尽きた所で音楽に転じ、その音楽を立体化して舞踊にした。これがタゴールの芸術修行である。
科学も又眞理の表現であるとしてこれを採用した彼は、農村復興のため、たった一人の息子をアメリカへ留学させ農学を学ばせた。農も又芸術の一つだと達観していた彼は、宮沢賢治の様に農村に文化の花を咲かせ、住みよい自治村の建設に意をそそいだ。ベンガルの百姓の中でタゴールの歌を歌って涙を流さぬ者は一人もいない。
日本の礼讃者タゴールは、謙虚な「聖地巡礼の旅」として世界を漫遊したが、日本は運A叩に恵まれたアジア唯一の国と見、日本人しか持ち合わせない美徳を挙げ、日本の使命と永遠の価値を思い起こさせてくれた恩人である。又逆に美しい日本の淳風に鯛れ、日本で大歓迎を受けた彼は、インドの恥部を知っているだけに恥ずかしい思いをし、反省させられたのである。
タゴールは又彼の前に現われた日本の女中の姿を見て日本の女性をこよなく礼讃したし、係数僧の威儀礼節の正しさを見てこう言っている。「今更日本は近代を試みる必要はない。眞の近代精神とは精神の自由であり趣味の奴隷であってはならない。人生の成功は愛による犠牲であり、インドは今でもこの愛を日本に送ることが出来る。昔、霊的な乞士 (比丘ビク) として日本人がインドに来たように、日本の場所をインドの心の中に探しに来て下さい…」と我々をインドに招いている。「日本のガンディー」という名稀は、屡々耳にしたことはあるが、「日本のタゴール」 という代名詞は曽て聞いた事もない。恐らく将来とも聞くことはなかろう。
タゴール以前にタゴールなく、未来も又有り得ない。う4廿一世紀に於ける 「日本の使命」を我々に指示してくれた恩人タゴールに我々は感謝しなければならない。
其の頃、淀橋の国際学友会館の寮に住む、同志デス・パンデイ君を訪ねては色々語り合った。チャンドラ・ボース氏が若くしてカルカッタの市長に当選したことは度々話題にしていた。パンデイ君と独立について話をするうち、中村屋のビハリ・ボースを紹介してくれたので、隠田の住居にボース氏を訪ねて色々と教えを乞う事が出来た。ボース御自身の著書を頂き、ボース氏との縁でラマムル君を知ることになった。このラマムル君が終戦八月十八日、台北で飛行機事故により死亡したネタージの遺骨と宝物を参謀本部の高倉中佐よりサハイ氏と共に受取り、現在の蓮光寺に遺骨を頼んだのち、直ちに宝石を持ってインドに飛び、当時のネール首相に宝石を渡したまさにその人であった。
昭和十六年には頭山先生に拝眉することが出来てから、雑賀先生や岩田愛之助先生、井上日召先生、笹川良一先生他数名の将軍方にも色々教えを受ける事が出来る様になって勇気百倍になった。そして菅野大佐に会っている様になった。
昭和十六年十二月八日の米英に宣戦布告の報せに興奮は絶頂に達していた。
昭和十八年四月、大本営命令により台湾から昭南に行き、光機関員となり、秋にはINA (インド国民軍) とともに馬来から蘭貢に行進したが、まだタイ緬鉄道は未完成で苦労を重ねた。
昭和十九年三月、INAもインパール作戦に進軍する事になり、初陣式にネタージは、閲兵後一時間に亘る大熱韓をふるつた。ネタージの熟蹄に武者震いをせぬ兵士は一人もなかつた。意気天をつく出陣式であつた。私自身も身震いする感動を覚えた。此の時の英姿を今も忘れることが出来ない。
三月に出発以来INA第一聯隊の主力はテン高地に進出した。弓部隊の左翼を支援するためである。間もなくザモールに於て敵と正面衝突し、激戦の末、敵一個小隊を捕虜とし武器弾薬を捕獲する戦果を上げることが出来た。そして聯隊長の待望する主戦場へ転進命令を受けて意気大いに上るも、雨の中を苦労して烈部隊の指揮下に入つた。此の頃は第一線の主戟場は雨にたたかれ、しか
も二ケ月も食糧はなく、烈部隊も祭部隊も弓部隊も最早これ以上の戦いを続けることは不可能であつた。烈部隊長は部下を見殺しに出来ず、食程を求めて兵を退けることにした。いはゆる抗命の罪である。兵は三三五五突撃して来た山を下るのであるが、何処にも食程はなく、雨とマナリヤとアメバー赤痢に次々と倒れて行く、いはゆる言語に絶するインパールの悲劇である。
秋口に蘭貢に着いて一息ついて間もなく、続いてイラワジ作戟が年明と共に開始されるが、此の作戦もペグ山系に閉じ込められ、昭和二十年七月、雨に苦しみ乍ら、敵包囲網を突破してようやく安全地帯に着いたのは終戦後のことであつた。
戦後、バンコクのバンカン刑務所に入獄、更に十七キロのキャンプに於て、一時期INAの兵士達と隣り合せになつた時、ネタージを信ずる彼等の意気は正に天地無地窮の感を深くしたことを覚えている。
「今から七百年前、モンゴルは大侵略を行い、インドの北辺からヨーロッパまで征服した。その時、北条時宗を中心に日本全国民は団結し、二度にわたってモンゴル軍を追い払った。この偉業は日露戦争の時にも起った。日本は大国ロシアを相手に勇戦し、東郷平八郎はパルチック艦隊を撃滅してしまった。その時アジア諸民族は感激し、喜びの涙にむせんだ。黄色人種でも白人を破ることができることを証明したからである。この成果は大東亜戦争にも繋がった。束候英機首相はインド独立軍を指揮するチャンドラ・ボースに対して支援を命じた。これによってイギリス支配に最後の一撃を加えることができた。多くの日本青年が血を流したことによってインドは独立できた。日本よ、ありがとう″と申し上げたい。
かつて岡倉天心はインドを訪れ、『アジアは一つ』 (明治三十六年『東洋の理想』) と述べた。天心がこの世におられたら、現代の姿を見てどんなに喜ばれることであろう。
そして忘れてならないことは、仏教を日本に定着された聖徳太子についてである。白人の思想宗教はわざわいしかもたらさなかったが、仏教思想は永久に栄えることを約束している。釈尊の教えからアジア解放まで、その根底には同じ精神が流れている。アジアに新世紀を開く鍵はここにある。日印親善万歳、日本万歳″」。
レイキ氏は僅か八分間の挨拶の中で、聖徳太子、北条時宗、岡倉天心、東郷平八郎、東候英機の五人の人物を挙げながら日印関係を語った。日本側としてどう挨拶を返したらよいであろうか。
インドに生れた釈尊は、日本やアジアのみならず、世界的にも最も巨大な存在の一人である。サンフランシスコ講和会議の時、セイロンのジャワワルダナ全権が行った不朽の名演説を忘れることができない。彼は講演の中で 「日本の掲げたアジア共栄の思想に共鳴したのは、釈尊の教えに通じたからである。釈尊の 憎悪は仁愛によってのみ消える″ という教えは、アジア共栄の指針である。我々は日本から賠償を取り立てることに反対する」と述べている。
そして岡倉天心も高く評価しているが、アショカ王を無視してはならない。彼は仏教を全インドのみならず、セイロンから西アジア一帯に広め、高度な仏教美術を今も残している。アショカ美術を評価する岡倉天心だが、彼はアジア人で最初にノーベル文学賞を貰い、インド国歌の作詞者である詩聖タゴールとは無二の親友であった。タゴールは知日家であり、過去四回訪日し、記念碑は軽井沢に建っている。そしてレイキ氏の紹介されたチャンドラ・ボースの遺骨は、杉並区の蓮光寺に安置され、蓮光寺の記念碑には参拝に訪れたプラサド大統領、ネル一首相、ガンジー首相の弔辞が刻まれ、ボースの胸像が建てられている。
さらに忘れられないことは、東京裁判で日本無罪を主張したパール判事のことである。パール判事の偉業を残すために、箱根には 『パール・下中記念館』 が建立され、最近、京都の護国神社境内にもパール記念碑が建てられた。
カルカッタの都市計画は、イギリス植民地のなかでも最高のものだから豪壮である。目白駅付近に似て、女子大生の歩いている高級住宅街に、独立戦争の指導者チャンドラ・ボースの甥であるシシル・ボースの渋い赤色の二階家があった。この建物は、ボースの選挙事務所だったが、元々はボースの実弟 (実業家) の邸宅である。いまはチャンドラ・ボース研究所となっている。
戦前、イギリス政府はボースを 「政府転覆を謀った政治犯」として投獄中だったが、若いシシルの異常な努力で脱獄に成功。モスクワに行き、スターリンに「我々の反英運動を援助せよ」と要請したが拒絶されたのでベルリンに行き、ヒットラーと相互援助条約を結び、兵器の提供と軍事訓練の代償としてヨーロッパと北アフリカの英印軍と戦っていた。
ところが大東亜戦争が始まり、英印軍のインド兵たちが日本の藤原岩市機関長らの呼びかけに応じて投降し、インド国民軍(INA)を結成した。このINA(約四万人)率いるモハン・シン将軍と藤原機関長がボースを呼び寄せた。ボースがシンガポールに入ったらINAはすぐに指揮下に入った。ボースは司令部をシンガポールに置き、南洋 (現在のASEAN諸国) のインド人に「インド進軍の好機来る」と訴えて歩いたら、充分な献金(現金と貴金属) と技術者が集まったのでインパール作戟を敢行することになつた。このインパール作戦こそが、最初にして最後のインド独立戦争だった。
山下兵団のマレイ・シンガポール作戟に参加した私は、藤原機関長の英印軍所属インド兵に対する説得が予想外の成果を挙げたことをよく知っている。時には三百人、時には千人も投降する姿は、親の家に帰る息子のような喜びに満ちていた。反日教育が徹底していた中国戟線では絶対に見たことのない光景だった。
昭和十七年二月十五日、シンガポールが陥落した。その後藤原機関長は、シンガポールの大広場で四万人の投降インド兵を前に「自分の力で独立しなさい。日本軍は支援する」と演説したら、投降兵たちは跳び上がって喜び、その日のうちに全南洋のインド人に伝わり婦女子まで興奮した。
戦後、藤原機関の通訳たちと懇意になつたが、チャンドラ・ボースの手足となって働いた藤原機関とINAが、インドの独立に与えた衝撃は物凄く大きいことが判った。藤原機関とINAをインド国民(当時)の過半数が尊敬していたと思う。その感情を代弁してボースの甥のシシル・ボースは「今でもINAの元将兵は『植民地主義の英国を打倒する戦争は聖戦だった』と主張しているし、『大東亜戟争は終わっていない』という認識です。インド人のナショナリズムは『セポイの反乱』の時から変わっていません。アジアに極端な貧富の格差がある限り、ナショナリズムも宗教も社会主義も無くなりません」と力説していた。 植民地主義を打倒し、アジア人のためのアジア、具体的にはアジアの人々が欧米と同じ経済水準になるまで、日本は 「理念としての大東亜戦争」を戟い続ける責務があることを忘れてはならない。
日く、大本営がかなりの不安を感じながらも、これまでの専守防禦から本格的な攻勢防禦に転じようとした現地軍の強い要望に引きずられて決定された本作戦は、武器・弾薬・食程などの補給を軽視し、制空権を米英軍にほぼ全的に奪われた中で唆瞼な未知の山脈を踏破して、寡をもって多に対して短期決戟を強いるかなり無理なものだった。ために、作戦遂行中でありながら一二人の師団長が相次いで交替させられた事実が端的に示すように、指揮統帥が大きく乱れ、物量豊富な敵の猛反撃によって攻撃が中途で挫折。その結果、参加兵力約十万人のうち三万人が集れ、二万人が傷つき、撤退したのち戦い得る将兵は二万人を割ってしまうという惨澹たる敗北に終わった1まさに 「ガダルカナルとレイテとを併せて三大敗退」 (伊藤正徳) の一つに数えられる、と。
ニューギニアと並んで純然たる戟死者よりも餓死・病死者の方が多いという悲惨な戟場であったこともあって、コヒマ攻略などの局地的成功や拉孟・勝越などの玉砕に見られる日本軍将兵の善戦敢闘を除いて、全面的に負の評価が下されるのが常であるインパール作戦ではあるが、そこにはもう一つ別の側面があったことを知るべきであろう。
そう、インド独立支援という雄大な政略目的があったのである。最後まで戦術面に不安を感じていた東候英機陸相が敢えてインパール作戦を了承したのも、太平洋方面での戦況の劣勢を挽回しようとする意図だけではなく、大東亜会議で何度も会談を重ねたインド独立の英雄チャンドラ・ボースへの格別の信頼と期待があったからである。ボースが組織したインド国民軍はこの作戦に六千人を参加させ、四月上旬にはインパール南方のモイランを占領し、初めてインド独立旗を祖国の地に翻したものの、作戟は先記したように失敗し、国民軍兵士も三千人が陣没した。
しかし、このインパール作戟はインドの独立にとって画期的な意義があった。ボースの甥であるシシル・ボース氏は次のように語っている。
「日本軍とともに行動したインパールでの戦争は、インド革命にあっては、最終的にして、最大のクライマックスとなつた行動でした。そして歴史的に見ても、インパールにおけるたった一回の軍事行動は、インド独立にとって非常に重大なできごとになりました。
なぜなら、その後に続いたインド国民軍に対する軍事裁判 (敵国日本に協力したとして反逆罪で起訴) は、インド兵の大英帝国に対する忠誠心を破壊し、インド国民の中に、インドの独立と自由に対する新しい忠誠心が生まれたからです。」
こうしてインドが独立したのが一九四七年 (昭和二十二年) のこと。その五年後に日本とインドが国交を結び、本年は国交樹立五十周年という節目の年に当たる。日印両国のさらなる友好を願いながら、ここにあらためて往時を回顧して二言強調しておきたい。
かのインパール作戟で戦没した日本軍将兵の死は決して無駄ではなかった。戟略的には失敗であったとしても、政略的には後世に偉大な成果をもたらした。その苦闘と献身の事跡は、民族の誇りをもって永遠に語り継がれねばならない。諸霊の安らかなる眠りを心より祈りつつ…
「独立後、貴殿にとって最大の困難とは?」と、ド・ゴール特使としてこの国を訪ねたマルローが投げた問いに、ネール首相はこう答えたのだ。
「正義の手段をもって正義の国家をつくること」−と。
私の少年時代、躍るガンジー翁の姿は、最も崇高なるアジアの 「抵抗」 のシンボルだった。道義国家インドのイメージは、次にはパール判事をとおして敗戟国民日本人を感動せしめ、その六年後、一九四九年には、中共の侵略を逃れたダライ・ラマを迎えにダラムサラまで赴いたネール首相の姿勢をもって、憐情なる我々の襟を正さしめたのであった。
このインドが、一九七一年、東パキスタンを助けてインド・パキスタン戦争を勝利に導き、バングラデシュとしてそれを独立せしめた現代史の嵐が、つい昨日のことのように思いだされる。独立戟争の災禍も生々しいその三年後、バングラデシュは未曾有の大洪水に見舞われた。たまたま私は、ユネスコアジア連盟の事務局長として真っ先に現地に飛び、その救済運動の口火を切ったことから、インド独立精神の炎の伝承の凄まじさを間近に実見することとなつた。
その 「狂人」 は、ダッカの町の、一面の浸水に浮かぶ一軒家の二階に坐していた。バングラデシュは元々、インドのベンガル地方のベンガル語文化圏であり、その代表として日本ではタゴールが知られるが、もう一人、国民的英雄詩人としてインドにおいても有名なのが−ニューデリー空港からまっすぐ延びた大通りにその名が冠されているーいまそこで、新聞を逆さに取って唇をわなわなと震わせつつある、このノズルル・イスラームなのであった。余りの激情ゆえに発狂し、多年、英国官憲の獄中に岬吟する前に、彼の愛国詩に鼓舞されて独立運動は高まっていった。第二の国歌ともいわれる、その名詩『梶とる人よ、心せよ!』を、サリーを纏った美しいその令嬢たちが、リュートを奏でつつ歌ってくれた光景は、瞼に灼きついて離れない。
「愛と犠牲」 への頒歌(ほめうた)である。
この詩を竿頭に掲げた某紙*の特集号を発行して、私はバングラデシュ救済のキャンペーンに乗り出したが、知らぬ間にそれが九重の奥に届いていたらしい。一日、皇太子殿下と美智子妃殿下(現天皇皇后両陛下)の号をお手に記者会見を開かれ、特に妃殿下よりお言葉が伝えられてきたことは、まことに畏れ多いことであった。何事か大和ごころと通ずる「捨身」の高貴さをそこに感じられたからではあるまいか−その後、『橋をかける』を拝読して、遅鈍な自分が、はっと気づかされたことである。
往古、飛鳥時代に、インドより法華経を介して′「捨身飼虎」 の思想が聖徳太子へと伝えられ、日本的「a−truism(愛他主義)」 の元型を形成した。我々が武士道と呼び、ガンジー、ネール、いままたダライ・ラマがそと共鳴
して 「アヒムサ=非暴力」と呼ぶ偉大なる東洋の霊性力を、いまこそ、修羅闘諍の世界に向かって、日・印こぞって示すべき時ではあるまいか。
*日本ユネスコ協会連盟発行 『ユネスコ新聞』1974年10月15日号。
日本・インド国交樹立五十周年記念日である四月二十八日に合わせまして、私は、小泉総理大臣特使として、日印友好議員連盟の議員らとともにインドを訪問しました。バジバイ・インド首相を表敬訪問した際に、総理大臣親書を手渡し、平成十三年十二月十日に発表されました「日印共同宣言」に基づき、両国関係の発展における幅と深みの醸成、及びグローバルな課題への挑戦という二つの柱を中心に、グローバル・パートナーシップを強化していきたい意向を伝えました。
それに対しインド側は、日本とインドの友好と協力関係の一層の発展に強い期待感を表明するとともに、アジアの主要な民主主義国である両国国会議員の交流の重要性を指摘され、この度の私どもの来訪がこれに大きく貢献するものであるとの歓迎の意を述べられました。
また、四月二十九日に開催されました日本・インド国交樹立五十周年記念式典には、インドの各界から多数の有力者が出席し、両国から招かれた八百名の招待者とともに、盛大な式典が開催されました。それに合わせまして、議員連盟からの記念の楯と、日本側が発行した記念切手の贈呈式も行われました。
日本とインドの関係は、平成十二年八月の森総理大臣(当時)のインド訪問、及び平成十三年十二月のバジバイ首相の訪日を経て一層緊密化しつつあります。インドはたいへんな親日国で、昭和天皇の大喪の礼に際しまして三日間の喪に服し、広島に原爆が投下された日には、国会において黙祷がささげられたと聞いています。
この度の日本・インド国交樹立五十周年を、広範な分野での人と人との幅広い交流を通じ、相互理解を深め、両国のパートナーシップのための確固たる基盤を築く好機としたいと思います。
親日的な南アジア重視の国策を
富士通竃シ誉会長 山本 卓眞
日本とインド、パキスタン、スリランカ各国とは国交樹立五十周年に当たり、バングラデシュとは三十周年になる。三月川口外相は大臣主催レセプションを行い、四月には中山太郎日印議連会長、堀内光雄日・パキスタン議連会長、野呂田芳成日・スリランカ議連会長がそれぞれの国を訪問し、各二国関係強化の必要性が確認された。その他各種の事業も実行または計画されているが、日中三十周年に比べこれら南アジア各国への印象は薄い。理由は専ら日本の政官民の認識・演出不足であって、従ってこの記念誌の意義は大きい。南アジアは面積で欧州に匹敵、人口はそれに倍し、日本にとって地政学的にも重要な位置を占める。現在中国は経済成長を上回る軍事力の増強を続けているが、将来のアジアの均衡ある発展と安定の為には、バランス・オブ・パワーとしての南アジア、特にインドの存在は重要である。日本はカシミール問題に対しても、安定の為の努力を継続すべきであろう。
南アジアは、日本にとって石油シーレーンの要所であり、将来の中央アジアの石油、ガスへのアクセスでもある。七月、インド国防相が来日し、我国との防衛協力の申入れが報じられたが、協力発足の絶好の機会ではないか。日本船への海賊の捕獲がインド海軍に依って行われた事実があり、ASEANに連なるシーレーンの防衛協力は、極めて現実的な課題である。
インドはソフトウエア先進国と呼ばれている。スリランカに進出した日本企業の業績も順調と聞く。嘗て日本が協力して遂に世界の成長センターとなった東アジアの次の成長の候補は南アジア、特にインドではないだろうか。こうした協力こそ日本の志であるべきだろう。
作家の堀田善衛はインドを、自己主張を精神生活の第一の基礎とする文化圏と呼び、中根千枝は横社会と名付けた。強い文化の差、交渉相手としての手強さもあるが、歴史的文化的に深い繋がりを持ち親日的な南アジアとの関係を重視した国策を樹立すべきだろう。
日本とインド―修交五十年の記念年に
東京大学名誉教授 小堀 桂一郎
或る二つの囲と囲との親疎の度合を測る一の目安となるのは、その一方の囲の一般庶民が、相手の囲のどんな分野のものでもよい、人物の国有名詞を幾つくらゐ知つてゐるか、その数である、との説を聞いたことがある。なるほど一案である。よく聞く話だが、フィンランド、トルコといつた囲の庶民の対日感情は、専らトーゴーとノギといふ二つの固有名詞に集約されて表現されてゐる、との説もある。その説の延長線上で考へてみると、それが日本とインドとの関係の現在のあり方を言ひ表してみる上でのよいヒントになる。即ち日本の庶民は、政治的にも文化的にも平生あまり嫁が深い存在ではない様に思はれてゐるインドについて、実は意外なほど多くの固有名詞を知つてゐるからである。戦前の、少し古いところではアジアで初めてのノーベル文学賞受賞者である詩人タゴール、次いで新宿の中村屋の庇護を受けたことで知られる独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース、同名だが政治的にはより重要な存在となつた自由インド仮政府主席のスバス・チャンドラ・ボース、又彼の初めの師であつたマハトマ・ガンディーはその非暴力的抵抗運動の標梼によつて一時は日本でも聖者の様に扱はれてゐた。戦後にはネル一首相と、彼が日本に贈つてくれた象と同名のその愛娘インディラ・ガンディ一首相の政治的敏腕は高い評価をかち得てゐた。そして極東国際軍事裁判に於いて唯一人、本来の国際法上の公正の観点から全被告無罪の判決文を著したラダ・ピノート・パル判事がゐる。
かうしてみると、日本人がインドといふ囲の歴史と文化の諸相をより深く、正しく知らうとする手がかりはいくらでもある様に見える。本年の記念年をよき機会として、インドをよりよく知るための縁故を十分に活用し、又ふやしてゆくことが両国にとつての幸せであらう、と素朴に考へてゐるところである。
日印関係再構築の時
日印友好協会会長 岡本 幸治
私がインドに初めて長期滞在したのは今から二十五年も前になる。首都のジャワハルラル・ネル一大学に籍を置いたが、一年滞在するのなら日本研究科や日本語科があるからそこで講義を担当してくれないかという依頼があり、それも面白い体験だなと引き受けたのがインドと深いご縁を結ぶきっかけとなつた。帰国後もインドには毎年足を運んでいる。メディアの一面的情報でなく、この目で直接インドの実相を確かめておく必要を感じたためである。日本のマスメディアのインド情報を私はかねて 「火山型報道」 と呼んでいる。人畜に異常な災害をもたらす事件だけを大きく扱う傾向があるからだ。長い間、インドはいつまで経っても発展しない、牛と蛇遣いとカーストの国という固定観念が多くの日本人のおつむを占めてきたが、一九九一年に経済自由化に踏み切ってからのインドの変化は激しいものがある。最近では急にインドのIT大国ぶりがもてはやされることになったが、長短いずれにせよ、特殊な部分だけが切り出されて、これこそがインドのすべてでございと展示するような報道に振り回されることからは、早く卒業したいものである。
インドは南アジアにおける圧倒的な超大国だ。しかし長らく続いた冷戦期、とくに一九六〇年代以降の日本では、インドに関する過小評価が支配的であった。非同盟を掲げながら親ソに傾斜したインドと、アメリカ一辺倒の日本では、冷戦構造下では別陣営の国であった。経済的にも政治的にも日印両国は疎遠であり、一九五〇年代に抱かれていたインドに対する日本人の敬愛の念は、ほとんど消滅していた。
しかしこの十年、国際環境は大きく変化した。今や我々は冷戦のしがらみや経済至上主義的価値観から脱却して、新たな発想で両国の関係を考える時に到っている。二〇〇〇年の夏に訪印した森首相は、日印関係は 「グローバルパートナーシップ」 の時を迎えたと述べた。これをいかにして内実のあるものにするかが、当面我々の喫緊の課題である。
アジアの二大民主主義国家
−日本とインド
−日本とインド
日印親善協会会長 加瀬 英明
日本とインドは、アジアにおける二大民主主義国家である。この二つの国家がアジアの軸として、緊密に協力しなければ、アジアの平和と繁栄を達成することができない。ヨーロッパにおいては、ソ連が解体したことによって冷戦が終わり、平和が建った。しかし、アジアは全体主義国の挑戟を受けている。アジアの未来は、日本とインドが協力することを中核として、自由な海洋アジア諸国が結集することによって確かなものとなる。
ところが、日本とインドは同じ民主主義国であり、宗教的な価値観を分かち合いながら、冷戦下の歴史の経緯から、不幸にして関係が疎遠になっていた。今、インドの十億の民は旺盛な経済を遂げつつある。インドが経済的に発展して、国力を増伸することが日本の国益になる。
日本とインドは、互に精神性がきわめて高い国である。両国民が交流を深めることによって学び合い、未来を共有することがアジアの興隆にとって強く望まれる。
日印関係の展望
元駐インド大使 小林 俊二
今後の日印関係を左右する基本的な要因は、両国間の経済関係の動向である。それは財界の関心の高まりが政界の関心を高め、政界の関心の増大が官僚を動かすという多数の国々との関係について、日本国内で作用している力学の反映ともいえる。この意味で一九九一年以降のインド経済の構造改革が日印関係に新たな頁を開いたのは自然の成行きであった。だがインドの経済改革は当初の二年間に内外投資と貿易の自由化を通じてインド経済に目覚ましい活性化をもたらし、日本を含む国際社会の注目を集めたものの、その後は多くの課題を積み残したまま停滞の様相を口重している。日本の対印直接投資や輸出入額の対世界総額に占める微々たる比率に大きな改善が見られないのもこのためである。
改革を停滞させている直接の原因は、インド国内における政治情勢の流動化にある。残された改革の課題は労働関係法令の合理化、国有企業の民営化、金融改革、農業部門の合理化、補助金政策の見直し等、特に労働界の抵抗が強く、遂行のために強力な政治的指導力を必要とするものばかりである。しかるに一九九六年の総選挙でコングレス党が敗れて以来、インドでは下院議席の過半数はおろか半数に近い議席でさえ単独で制する政党が姿を消し、多数の政党の連立や閣外協力による政権樹立が恒常化してしまった観がある。この状況の下では、政府が組織労働者を始めとする既得権益層の抵抗を排して、改革の遂行を進める上に必要な政治力を発揮することは困難である。しかも連立政権の中核を成すBIPは、市場開放や経済自由化に対して基本的に慎重な態度を崩していない。
当初の二年間に実現を見た自由化措置が維持されており、現政権も「改革の第二波」を標模し、さらなる改革に前向きの姿勢を示していることは評価される。しかしインド経済の一層の活性化はもとより、日印経済関係の顕著な増進も残された改革がどこまで実際に進捗するかにかかっているのである。
日印親善に貢献した人々
東京外国語大学名誉教授 奈良 毅
一般の日本人がインドについて抱くイメージは、釈尊が誕生された天竺の国、ヒマラヤから流れ出てベンガル湾に注ぐ聖なる河ガンジス、カレーを食べ、サリーを着、ターバンを頭に巻く人々の住む国、といったところであろうか。またすぐ思い出されるインド人と言えば、アジアで最初にノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールをはじめ、「真理把持(サッテヤーグラハ)」という非暴力による抵抗運動を通してインドの独立を達成したモーハンダース・カラムチャンド・ガンジー、独立インドの初代首相として非同盟主義を葺き第三世界をリードしたジャワハルラル・ネール、つい最近亡くなったノーベル平和賞受賞者のマザー・テレサなどの名が挙げられるかもしれない。さらに日印親善のために貢献した人々としては、インド人側からは、第二次世界大戦中日本に亡命してインド独立運動を始めたラースビハリ・ボースとか、インド国民軍を創設し日本軍とともに英国軍と戦ったスパーシユ・チャンドラ・ボース、また戟後極東国際軍事裁判において日本の立場を弁護したラーダピノード・パール判事などの名が浮かんでくるし、日本人の側からはタゴールと親交があり、『東洋の理想』 を著した岡倉天心を始め横山大観・菱田春草などの芸術家たち、ガンジーと親交があり、日本に伝来された仏教のインドへの還流を願っていた藤井日蓮師などの名が思い出されてくる。
こうした日印文化交流の歴史に関しては、『日本とインド交流の歴史』 (山崎利男他編、一九九三年) が簡潔で的確な情報を提供してくれているが、必ずしも完全なものではない。そこで、この記念誌に一文を寄せるに当たり、同書に洩れている重要な人物の名を記し、日印文化交流史のさらなる調査研究を進めていく際の参考資料になればと願うものである。
まず、ラーマクリシュナ・ミッションを創設したスワミ・ヴィヴューカナンダ師で、一人九三年米国シカゴで開かれた世界宗教者会議において、ヒンドゥー教の基礎をなすヴューダーンタ哲学の普遍性を世界中の諸宗教代表者に認識させた聖者であるが、米国に向かう途中日本に寄った時、日本の文化と当時の日本人に深い感動を覚え、インドにいる自分の弟子達に、これからは西洋よりもむしろ日本から多くのものを学ぶべしと指示した書簡を送っている。同師の教えや思想が当時のインド人をして自国の伝統文化の価値を再認識させ、独立運動家達の精神的支柱となったことを思えば、彼の書簡は多くのインド人の潜在意識の中に、日本人や日本文化に対する親近感と敬意と植え付ける結果となっているのではなかろうか。
次に、かつて反英インド独立運動の闘士であり、のちに精神革命の指導者となったシュリー・オーロビンド・ゴーシュという聖者がいるが、同師を助けオーロビンド・アシェラムを大いに発展させたミラ・リチャードというフランス人マザーは、日本を訪れて三年間も滞在し、茶道や華道や座禅など日本の伝統的・精神的文化を深く愛好して学習実践していることから、インドのボンデイ
ツチャリ市にあるアシユラムでの指導を通じ、日本の精神文化を多くのインド人の心の中に無意識的に伝達していると言えるのではなかろうか。
また江戸末期の国学者である平田篤胤は、仏教嫌いの極めて保守的な学者という熔印を押されているようであるが、本当は実証的な研究を重んじる優れた人文学看で、彼の著した 『印度蔵誌』 は当時人手可能なあらゆる資料を駆使したヒンドゥ教の卓越した研究入門書となっており、中世において梵語 (サンスクリット語)の音韻配列を取り入れ、日本語の五十音図を編みだしたと言われる空海(弘法大師)の文化的貢献とともに、日本人のインド文化研究者にとって忘れてはならぬ人物である。
最後に挙げる木村日毅は、戦前インドの伝統仏教を研究するため、東ベンガル地方のチッタゴン市に滞在した仏教学者であるが、インド東部の大言語であるベンガル語(詩人タゴールの母語であり、現在の話者人口は約一億三千万人) をマスターした最初の日本人で、かつインドの大学で日本語と日本文化を教えた最初の日本人教師として記憶されるべき人物である。
パール博士は友好と理解のシンボル
同台経済懇話会常任幹事 野地 二見
日印国交樹立五十周年にあたり、インド独立五十周年(一九九七年) に、京都に建立したパール博士顕彰碑完成記念式典に於ける、K・R・ナラヤナン・インド大紋領のメッセージと、シダールタ・シン駐日大使の祝辞の重要性を今改めてかみしめています。大統領はそのメッセージで 「極めて緊迫した国際政治情勢下であったが、博士の判決は勝利者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐とを退け、それよりも平和と国家間の和解と親善のため努力すべきことを説いた感銘深い呼び掛けであった」と述べておられます。
また大使は祝辞の中で 「パール博士の判決の真髄は、いかなる戦勝国も既に存在する国際法を超越して新しい犯罪の定義をつくり、それにより軍事攻撃に関わった被告を裁くことはその権限を逸脱しているという法理である」と述べ、パール博士の反対判決とその後の行動は、戦後のインドと日本の親善関係を発展させる重要な要素となっていること。そしてインドはその後、日本の復興のために多くの支援協力「原爆投下に対する非難」、「戟時賠償の放棄」、「単独の平和条約締結」、「アジア大会参加への協力」などをしてきた。
然し他の世界での趨勢が、この尊敬・連帯・友好関係を揺さぶって、充分な友好と協力関係が築けずにいることを残念に思うと述べられた後、両国間には、敵対や、領土的、歴史的、文化的、宗教的な争いの過去が全くないのだから、今こそ友好の関係を深くし提携協力を強化して、アジアの安全と平和の維持に、互いにその重要な役割を果たしてゆこうと呼びかけられました。
ナラヤナン大統領はメッセージの後半で、「パール博士はインドと日本との友好と理解のシンボルになっている」と言われました。
東京裁判史観から脱却し、日本人の誇りを回復せよとの博士の激励に、今こそ我々日本人は応えねばならないと思います。
タゴールと日本
元タゴール国際大学教授(在印) 牧野 財士
近代インドを大局的に見てインドを代表する人物にタゴールとガンディーがある。この二人の中でも特に日本と関係の深かったのはタゴールだった。彼の名は 「ラビンドラ」というが「ラビ」とは「太陽」という意味で、太陽と共に世界中どこへでも出かけて行く国際人タゴールに相癒しい名である。アジアの入り口カルカッタで生まれ、カルカッタで死んで行ったタゴールは、又儒教発祥の地ビハール州に近いベンガルに生を享け、儒教に最も多くの感化を受けた人でもある。このベンガルのシャンティニケタンの田舎暮しの中で、人間教育に対する国家百年の大計の元に、眞の人格形成を目指す国際大学を作ることにその半生を傾けた。彼が初めて寺子屋式学舎を作ったのは一九〇二年であるが、何とその学舎に入って来た日本人がいた。名は堀至徳、眞言宗の青年僧、蓋し外国人留学生第一号とも言うべきだろう。法門無尽誓願学の志止まず、儒教の源泉であるインドに渡った。教育に関する限りタゴールはガンディーより数年先駆けした。インド人がイギリス留学に魅せられていた時代に、タゴールは目を日本に向け、日本人をインドに招いた。タゴールは人間宗教の本質とも言うべき眞・善・美を教育の場で実践した。「自ら考え行動して学ぶ」という教育の姿勢は自然環境の中で実施され、秀才教育でなくして 「無用な物の価値」を見出し、三千年のインド精神の最も普遍な精髄を新生活の中に新しく生かすことだった。学生の個性を伸ばし、共同生活の訓練を通して草木の生長と共に人間の心身を養うのである。
天はタゴールの老衰を許さなかった。七十を超えた彼は、文筆を絵筆に持ちかえて残された十三年の生涯で、三千枚の自由画を画いた。
五才で詩を感じ、十四才で帝劇を書き、見神開惜したこの詩人はあらゆる人間の弱点を知り尽し、苦悩の火で身を焼き、「永遠の愛」 に見覚め、心の慰安を創作音楽に托した。二千以上の作曲をした彼は言葉の絶え尽きた所で音楽に転じ、その音楽を立体化して舞踊にした。これがタゴールの芸術修行である。
科学も又眞理の表現であるとしてこれを採用した彼は、農村復興のため、たった一人の息子をアメリカへ留学させ農学を学ばせた。農も又芸術の一つだと達観していた彼は、宮沢賢治の様に農村に文化の花を咲かせ、住みよい自治村の建設に意をそそいだ。ベンガルの百姓の中でタゴールの歌を歌って涙を流さぬ者は一人もいない。
日本の礼讃者タゴールは、謙虚な「聖地巡礼の旅」として世界を漫遊したが、日本は運A叩に恵まれたアジア唯一の国と見、日本人しか持ち合わせない美徳を挙げ、日本の使命と永遠の価値を思い起こさせてくれた恩人である。又逆に美しい日本の淳風に鯛れ、日本で大歓迎を受けた彼は、インドの恥部を知っているだけに恥ずかしい思いをし、反省させられたのである。
タゴールは又彼の前に現われた日本の女中の姿を見て日本の女性をこよなく礼讃したし、係数僧の威儀礼節の正しさを見てこう言っている。「今更日本は近代を試みる必要はない。眞の近代精神とは精神の自由であり趣味の奴隷であってはならない。人生の成功は愛による犠牲であり、インドは今でもこの愛を日本に送ることが出来る。昔、霊的な乞士 (比丘ビク) として日本人がインドに来たように、日本の場所をインドの心の中に探しに来て下さい…」と我々をインドに招いている。「日本のガンディー」という名稀は、屡々耳にしたことはあるが、「日本のタゴール」 という代名詞は曽て聞いた事もない。恐らく将来とも聞くことはなかろう。
タゴール以前にタゴールなく、未来も又有り得ない。う4廿一世紀に於ける 「日本の使命」を我々に指示してくれた恩人タゴールに我々は感謝しなければならない。
今も忘れぬネタージの英資
スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー事務局長 林 正夫
私が、インド独立運動に身を投じたのは昭和十五年の秋である。十六年になると本腰を入れて東西に走り廻る様になった。其の頃、淀橋の国際学友会館の寮に住む、同志デス・パンデイ君を訪ねては色々語り合った。チャンドラ・ボース氏が若くしてカルカッタの市長に当選したことは度々話題にしていた。パンデイ君と独立について話をするうち、中村屋のビハリ・ボースを紹介してくれたので、隠田の住居にボース氏を訪ねて色々と教えを乞う事が出来た。ボース御自身の著書を頂き、ボース氏との縁でラマムル君を知ることになった。このラマムル君が終戦八月十八日、台北で飛行機事故により死亡したネタージの遺骨と宝物を参謀本部の高倉中佐よりサハイ氏と共に受取り、現在の蓮光寺に遺骨を頼んだのち、直ちに宝石を持ってインドに飛び、当時のネール首相に宝石を渡したまさにその人であった。
昭和十六年には頭山先生に拝眉することが出来てから、雑賀先生や岩田愛之助先生、井上日召先生、笹川良一先生他数名の将軍方にも色々教えを受ける事が出来る様になって勇気百倍になった。そして菅野大佐に会っている様になった。
昭和十六年十二月八日の米英に宣戦布告の報せに興奮は絶頂に達していた。
昭和十八年四月、大本営命令により台湾から昭南に行き、光機関員となり、秋にはINA (インド国民軍) とともに馬来から蘭貢に行進したが、まだタイ緬鉄道は未完成で苦労を重ねた。
昭和十九年三月、INAもインパール作戦に進軍する事になり、初陣式にネタージは、閲兵後一時間に亘る大熱韓をふるつた。ネタージの熟蹄に武者震いをせぬ兵士は一人もなかつた。意気天をつく出陣式であつた。私自身も身震いする感動を覚えた。此の時の英姿を今も忘れることが出来ない。
三月に出発以来INA第一聯隊の主力はテン高地に進出した。弓部隊の左翼を支援するためである。間もなくザモールに於て敵と正面衝突し、激戦の末、敵一個小隊を捕虜とし武器弾薬を捕獲する戦果を上げることが出来た。そして聯隊長の待望する主戦場へ転進命令を受けて意気大いに上るも、雨の中を苦労して烈部隊の指揮下に入つた。此の頃は第一線の主戟場は雨にたたかれ、しか
も二ケ月も食糧はなく、烈部隊も祭部隊も弓部隊も最早これ以上の戦いを続けることは不可能であつた。烈部隊長は部下を見殺しに出来ず、食程を求めて兵を退けることにした。いはゆる抗命の罪である。兵は三三五五突撃して来た山を下るのであるが、何処にも食程はなく、雨とマナリヤとアメバー赤痢に次々と倒れて行く、いはゆる言語に絶するインパールの悲劇である。
秋口に蘭貢に着いて一息ついて間もなく、続いてイラワジ作戟が年明と共に開始されるが、此の作戦もペグ山系に閉じ込められ、昭和二十年七月、雨に苦しみ乍ら、敵包囲網を突破してようやく安全地帯に着いたのは終戦後のことであつた。
戦後、バンコクのバンカン刑務所に入獄、更に十七キロのキャンプに於て、一時期INAの兵士達と隣り合せになつた時、ネタージを信ずる彼等の意気は正に天地無地窮の感を深くしたことを覚えている。
日印の五大偉人を語る
元高千穂商科大学教授 名越 二荒之助
平成九年はインド独立五十周年に当った。この年、日印親善協会が主催して、東京をはじめ仙台、札幌、大阪、福岡等で 「インドの夕べ」を開催した。東京では、八月一日代々木公園の野外ステージが舞台で、七千人が集った。インドから来日した名士が次々登壇したが、印象に残ったのは最高裁の判事であったグランナース・レイキ氏の挨拶であった。氏は語る (加瀬英明氏の通訳)。「今から七百年前、モンゴルは大侵略を行い、インドの北辺からヨーロッパまで征服した。その時、北条時宗を中心に日本全国民は団結し、二度にわたってモンゴル軍を追い払った。この偉業は日露戦争の時にも起った。日本は大国ロシアを相手に勇戦し、東郷平八郎はパルチック艦隊を撃滅してしまった。その時アジア諸民族は感激し、喜びの涙にむせんだ。黄色人種でも白人を破ることができることを証明したからである。この成果は大東亜戦争にも繋がった。束候英機首相はインド独立軍を指揮するチャンドラ・ボースに対して支援を命じた。これによってイギリス支配に最後の一撃を加えることができた。多くの日本青年が血を流したことによってインドは独立できた。日本よ、ありがとう″と申し上げたい。
かつて岡倉天心はインドを訪れ、『アジアは一つ』 (明治三十六年『東洋の理想』) と述べた。天心がこの世におられたら、現代の姿を見てどんなに喜ばれることであろう。
そして忘れてならないことは、仏教を日本に定着された聖徳太子についてである。白人の思想宗教はわざわいしかもたらさなかったが、仏教思想は永久に栄えることを約束している。釈尊の教えからアジア解放まで、その根底には同じ精神が流れている。アジアに新世紀を開く鍵はここにある。日印親善万歳、日本万歳″」。
レイキ氏は僅か八分間の挨拶の中で、聖徳太子、北条時宗、岡倉天心、東郷平八郎、東候英機の五人の人物を挙げながら日印関係を語った。日本側としてどう挨拶を返したらよいであろうか。
インドに生れた釈尊は、日本やアジアのみならず、世界的にも最も巨大な存在の一人である。サンフランシスコ講和会議の時、セイロンのジャワワルダナ全権が行った不朽の名演説を忘れることができない。彼は講演の中で 「日本の掲げたアジア共栄の思想に共鳴したのは、釈尊の教えに通じたからである。釈尊の 憎悪は仁愛によってのみ消える″ という教えは、アジア共栄の指針である。我々は日本から賠償を取り立てることに反対する」と述べている。
そして岡倉天心も高く評価しているが、アショカ王を無視してはならない。彼は仏教を全インドのみならず、セイロンから西アジア一帯に広め、高度な仏教美術を今も残している。アショカ美術を評価する岡倉天心だが、彼はアジア人で最初にノーベル文学賞を貰い、インド国歌の作詞者である詩聖タゴールとは無二の親友であった。タゴールは知日家であり、過去四回訪日し、記念碑は軽井沢に建っている。そしてレイキ氏の紹介されたチャンドラ・ボースの遺骨は、杉並区の蓮光寺に安置され、蓮光寺の記念碑には参拝に訪れたプラサド大統領、ネル一首相、ガンジー首相の弔辞が刻まれ、ボースの胸像が建てられている。
さらに忘れられないことは、東京裁判で日本無罪を主張したパール判事のことである。パール判事の偉業を残すために、箱根には 『パール・下中記念館』 が建立され、最近、京都の護国神社境内にもパール記念碑が建てられた。
チャンドラ・ボーズと藤原機関長
アセアンセンター代表 中島 慎三郎
数年前、大東亜戟争とインド独立に関するドキュメンタリー映画『自由アジアの栄光』の製作アドバイザーとしてカルカッタを訪れたことがある。大東亜戦争中は、英連邦軍の総司令部があって五十万の軍関係者がいたし、インパールには百万人の軍関係者がいた。計百五十万という兵力は、英連邦軍の対日戦争に対する強‥烈な決意を物語るものであった。ちなみにベトナム戦争時の米軍は五十六万人の編成だった。カルカッタの都市計画は、イギリス植民地のなかでも最高のものだから豪壮である。目白駅付近に似て、女子大生の歩いている高級住宅街に、独立戦争の指導者チャンドラ・ボースの甥であるシシル・ボースの渋い赤色の二階家があった。この建物は、ボースの選挙事務所だったが、元々はボースの実弟 (実業家) の邸宅である。いまはチャンドラ・ボース研究所となっている。
戦前、イギリス政府はボースを 「政府転覆を謀った政治犯」として投獄中だったが、若いシシルの異常な努力で脱獄に成功。モスクワに行き、スターリンに「我々の反英運動を援助せよ」と要請したが拒絶されたのでベルリンに行き、ヒットラーと相互援助条約を結び、兵器の提供と軍事訓練の代償としてヨーロッパと北アフリカの英印軍と戦っていた。
ところが大東亜戦争が始まり、英印軍のインド兵たちが日本の藤原岩市機関長らの呼びかけに応じて投降し、インド国民軍(INA)を結成した。このINA(約四万人)率いるモハン・シン将軍と藤原機関長がボースを呼び寄せた。ボースがシンガポールに入ったらINAはすぐに指揮下に入った。ボースは司令部をシンガポールに置き、南洋 (現在のASEAN諸国) のインド人に「インド進軍の好機来る」と訴えて歩いたら、充分な献金(現金と貴金属) と技術者が集まったのでインパール作戟を敢行することになつた。このインパール作戦こそが、最初にして最後のインド独立戦争だった。
山下兵団のマレイ・シンガポール作戟に参加した私は、藤原機関長の英印軍所属インド兵に対する説得が予想外の成果を挙げたことをよく知っている。時には三百人、時には千人も投降する姿は、親の家に帰る息子のような喜びに満ちていた。反日教育が徹底していた中国戟線では絶対に見たことのない光景だった。
昭和十七年二月十五日、シンガポールが陥落した。その後藤原機関長は、シンガポールの大広場で四万人の投降インド兵を前に「自分の力で独立しなさい。日本軍は支援する」と演説したら、投降兵たちは跳び上がって喜び、その日のうちに全南洋のインド人に伝わり婦女子まで興奮した。
戦後、藤原機関の通訳たちと懇意になつたが、チャンドラ・ボースの手足となって働いた藤原機関とINAが、インドの独立に与えた衝撃は物凄く大きいことが判った。藤原機関とINAをインド国民(当時)の過半数が尊敬していたと思う。その感情を代弁してボースの甥のシシル・ボースは「今でもINAの元将兵は『植民地主義の英国を打倒する戦争は聖戦だった』と主張しているし、『大東亜戟争は終わっていない』という認識です。インド人のナショナリズムは『セポイの反乱』の時から変わっていません。アジアに極端な貧富の格差がある限り、ナショナリズムも宗教も社会主義も無くなりません」と力説していた。 植民地主義を打倒し、アジア人のためのアジア、具体的にはアジアの人々が欧米と同じ経済水準になるまで、日本は 「理念としての大東亜戦争」を戟い続ける責務があることを忘れてはならない。
インパール作戦を見直す
国学院大学教授 大原 康男
大東亜戦争後半の決戟の一つとして、ビルマ方面軍魔下の第十五軍 (司令官牟田口廉也中将) によって、昭和十九年三月から四か月にわたって実施されたインパール作戟に関しては、既に一つの歴史的評価が確立しているといっても過言ではない。日く、大本営がかなりの不安を感じながらも、これまでの専守防禦から本格的な攻勢防禦に転じようとした現地軍の強い要望に引きずられて決定された本作戦は、武器・弾薬・食程などの補給を軽視し、制空権を米英軍にほぼ全的に奪われた中で唆瞼な未知の山脈を踏破して、寡をもって多に対して短期決戟を強いるかなり無理なものだった。ために、作戦遂行中でありながら一二人の師団長が相次いで交替させられた事実が端的に示すように、指揮統帥が大きく乱れ、物量豊富な敵の猛反撃によって攻撃が中途で挫折。その結果、参加兵力約十万人のうち三万人が集れ、二万人が傷つき、撤退したのち戦い得る将兵は二万人を割ってしまうという惨澹たる敗北に終わった1まさに 「ガダルカナルとレイテとを併せて三大敗退」 (伊藤正徳) の一つに数えられる、と。
ニューギニアと並んで純然たる戟死者よりも餓死・病死者の方が多いという悲惨な戟場であったこともあって、コヒマ攻略などの局地的成功や拉孟・勝越などの玉砕に見られる日本軍将兵の善戦敢闘を除いて、全面的に負の評価が下されるのが常であるインパール作戦ではあるが、そこにはもう一つ別の側面があったことを知るべきであろう。
そう、インド独立支援という雄大な政略目的があったのである。最後まで戦術面に不安を感じていた東候英機陸相が敢えてインパール作戦を了承したのも、太平洋方面での戦況の劣勢を挽回しようとする意図だけではなく、大東亜会議で何度も会談を重ねたインド独立の英雄チャンドラ・ボースへの格別の信頼と期待があったからである。ボースが組織したインド国民軍はこの作戦に六千人を参加させ、四月上旬にはインパール南方のモイランを占領し、初めてインド独立旗を祖国の地に翻したものの、作戟は先記したように失敗し、国民軍兵士も三千人が陣没した。
しかし、このインパール作戟はインドの独立にとって画期的な意義があった。ボースの甥であるシシル・ボース氏は次のように語っている。
「日本軍とともに行動したインパールでの戦争は、インド革命にあっては、最終的にして、最大のクライマックスとなつた行動でした。そして歴史的に見ても、インパールにおけるたった一回の軍事行動は、インド独立にとって非常に重大なできごとになりました。
なぜなら、その後に続いたインド国民軍に対する軍事裁判 (敵国日本に協力したとして反逆罪で起訴) は、インド兵の大英帝国に対する忠誠心を破壊し、インド国民の中に、インドの独立と自由に対する新しい忠誠心が生まれたからです。」
こうしてインドが独立したのが一九四七年 (昭和二十二年) のこと。その五年後に日本とインドが国交を結び、本年は国交樹立五十周年という節目の年に当たる。日印両国のさらなる友好を願いながら、ここにあらためて往時を回顧して二言強調しておきたい。
かのインパール作戟で戦没した日本軍将兵の死は決して無駄ではなかった。戟略的には失敗であったとしても、政略的には後世に偉大な成果をもたらした。その苦闘と献身の事跡は、民族の誇りをもって永遠に語り継がれねばならない。諸霊の安らかなる眠りを心より祈りつつ…
道義国家インドとともに
筑波大学名誉教授 竹本 忠雄
インドを思うとき、いつも私の胸を熱くする一言がある。「独立後、貴殿にとって最大の困難とは?」と、ド・ゴール特使としてこの国を訪ねたマルローが投げた問いに、ネール首相はこう答えたのだ。
「正義の手段をもって正義の国家をつくること」−と。
私の少年時代、躍るガンジー翁の姿は、最も崇高なるアジアの 「抵抗」 のシンボルだった。道義国家インドのイメージは、次にはパール判事をとおして敗戟国民日本人を感動せしめ、その六年後、一九四九年には、中共の侵略を逃れたダライ・ラマを迎えにダラムサラまで赴いたネール首相の姿勢をもって、憐情なる我々の襟を正さしめたのであった。
このインドが、一九七一年、東パキスタンを助けてインド・パキスタン戦争を勝利に導き、バングラデシュとしてそれを独立せしめた現代史の嵐が、つい昨日のことのように思いだされる。独立戟争の災禍も生々しいその三年後、バングラデシュは未曾有の大洪水に見舞われた。たまたま私は、ユネスコアジア連盟の事務局長として真っ先に現地に飛び、その救済運動の口火を切ったことから、インド独立精神の炎の伝承の凄まじさを間近に実見することとなつた。
その 「狂人」 は、ダッカの町の、一面の浸水に浮かぶ一軒家の二階に坐していた。バングラデシュは元々、インドのベンガル地方のベンガル語文化圏であり、その代表として日本ではタゴールが知られるが、もう一人、国民的英雄詩人としてインドにおいても有名なのが−ニューデリー空港からまっすぐ延びた大通りにその名が冠されているーいまそこで、新聞を逆さに取って唇をわなわなと震わせつつある、このノズルル・イスラームなのであった。余りの激情ゆえに発狂し、多年、英国官憲の獄中に岬吟する前に、彼の愛国詩に鼓舞されて独立運動は高まっていった。第二の国歌ともいわれる、その名詩『梶とる人よ、心せよ!』を、サリーを纏った美しいその令嬢たちが、リュートを奏でつつ歌ってくれた光景は、瞼に灼きついて離れない。
「愛と犠牲」 への頒歌(ほめうた)である。
この詩を竿頭に掲げた某紙*の特集号を発行して、私はバングラデシュ救済のキャンペーンに乗り出したが、知らぬ間にそれが九重の奥に届いていたらしい。一日、皇太子殿下と美智子妃殿下(現天皇皇后両陛下)の号をお手に記者会見を開かれ、特に妃殿下よりお言葉が伝えられてきたことは、まことに畏れ多いことであった。何事か大和ごころと通ずる「捨身」の高貴さをそこに感じられたからではあるまいか−その後、『橋をかける』を拝読して、遅鈍な自分が、はっと気づかされたことである。
往古、飛鳥時代に、インドより法華経を介して′「捨身飼虎」 の思想が聖徳太子へと伝えられ、日本的「a−truism(愛他主義)」 の元型を形成した。我々が武士道と呼び、ガンジー、ネール、いままたダライ・ラマがそと共鳴
して 「アヒムサ=非暴力」と呼ぶ偉大なる東洋の霊性力を、いまこそ、修羅闘諍の世界に向かって、日・印こぞって示すべき時ではあるまいか。
*日本ユネスコ協会連盟発行 『ユネスコ新聞』1974年10月15日号。