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歴史 ─ 悠久の歴史と先人の歩みに学ぶ
Q&A「建国記念の日」ってなーに?


Q)「建国記念の日」ってなーに?

jinmuga.png A)「国民の祝日に関する法律」では「建国をしのび、国を愛する心を養う」日とされています。昔は紀元節と言っていました。どの国でも、その国の始まりを記念する日があります。例えばアメリカ合衆国では七月四日の独立記念日がナショナルホリデーとされています。インドネシアは八月十七日を独立記念日として、中華人民共和国は十月一日を国慶節として祝っています。その国の建国を祝い、幾多の苦難を乗り越えて建国という業を成し遂げた先人の理想や精神を確認することで、国民の団結心を高めているのです。
Q)日本ではどうして二月十一日が建国記念日なの?
A)日本書紀は、初代神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された日を「辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月(むつき)の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇(すめらみこと)、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年(はじめのとし)とす」と記しています。これを明治時代になって太陽暦に換算して算出されたのが二月十一日という日付なのです。
Q)科学的根拠はあるの?

A)そもそも国の成り立ちにおいて、正確にその日を特定できるのは、アメリカ合衆国のように歴史の浅い国に限られます。日本のように、歴史が古く、しかも自ずからにして国家が形成されたような国で、その日を科学的に特定することは不可能です。例えば、イエス・キリストの生誕日として祝われているクリスマス=十二月二十五日も、実はイエスがその日に生まれたという根拠は何一つありません。キリスト教がヨーロッパに広まる過程でローマやゲルマン民族の冬至の祭りを取り入れたのです。イエス誕生の年を元年としている西暦にしても、実際にイエスが誕生したのは、紀元前四年というのが定説となっています。しかし、それでも、西暦は誤魔化しだとか、クリスマスを祝うのはナンセンスだというような人はいません。その日を記念し、人々が心を合わせてイエスを偲ぶことに意義があるからです。同じように、神武天皇が即位された日を、日本書紀の記述により定め、その理想に思いを致すことは日本国民としてとても大切なことなのです。
Q)戦後は国民主権になったのだから、天皇が即位された日を建国記念日とするのはナンセンスなのでは?

A)米占領軍によって、紀元節が廃止された後も、紀元節の復活を望む国民は実に九割にのぼりました(当時の世論調査より)。昭和四十一年、紀元節は「建国記念の日」と形を変えて復活しました。その法制定にあたっては、社会党や共産党などから日本国憲法が発布された五月三日こそ建国記念日にふさわしいなど、複数の日付の候補が出されましたが、結局は二月十一日しかないという結論に落ち着いたのです。つまり、二月十一日とは、民主的手続きを経て、改めてその日がふさわしいと定められた日でもあるのです。
 七世紀から八世紀に律令制が確立して以降、我が国では、天皇を中心とした国家体制が整備、継続されてきました。摂関政治や幕藩体制の時代でも、天皇から任命されて初めて摂政や征夷大将軍もその地位を認められたのです。現在でも、内閣総理大臣や閣僚は皇居での親任式で、天皇陛下に親任されて晴れてその地位に就くことができるのです。
 つまり、天皇陛下を戴いて成り立ってきたのが、日本という国であるのですから、今上陛下は百二十五代ですが、その初代の神武天皇が即位された日を、建国記念日と定めるのは、ごく自然なことであるのです。
Q)神武天皇はどのようにして国を建てられたの?

A)それは古事記日本書紀、とりわけ日本書紀の巻第三に詳しく書かれています。日向(宮崎県)高千穂宮におられた神武天皇(御名は神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと)は、もっと国の中心に移るべく、大和を目指して船出をされます(神武東征)。途中、宇沙(大分県)、筑紫(福岡県)、阿岐(広島県)、吉備(岡山)に滞在され、やがて摂津、そして河内(いずれも大阪府)にお着きになられます。そこで、長髄彦(ながすねひこ)との戦いで、兄君、五瀬命(いつせのみこと)を失う大苦戦を強いられます。「日の神の子孫でありながら日に向かって(つまり東に向かって)攻めたのがいけなかった。回り道をして、お日さまを背にして戦おう」との五瀬命の御遺言に従って、紀国(和歌山県)から入って大和を目指されます。道無き道を切り拓きつつ進まられる天皇は途中、天照大御神(あまてらすおほみかみ)や高皇産霊神(たかみむすびのかみ)のお導きを受けつつ、幾多の苦難を乗り越え、再び、長髄彦と再戦します。そのとき、金色の鵄(とび)が飛んできて、天皇の弓にとまりました。照り輝く金鵄の光に、長髄彦の軍勢は目がくらみ、天皇が勝利されます。そしてついに、橿原宮を造営し、第一代の天皇に即位されるのです。

Q)神武天皇の建国はどのような意味をもっているのですか?

A)作家の故・保田與重郎氏は、神武建国の意義について、次のように述べています。
「建国ということが、いかに困難で、また辛苦の多い大業であるかということは、世界の状態を見ればわかります。たくさんの国ぐにが、今も建国の経営に苦しんでいるのです。
 いつの時代にも、皇室が文化、学術、芸術の中心でありました。戦国時代の国内が乱れた時代にも、地方の豪族たちは、都の文明を慕い、まねようとしました。今でも全国に小京都と称する美しい町があちこちにあります。」まさに日本の文化文明は天皇を中心に発展し広がってきたのです。
 また、保田氏は神武東征について、
「高天原の神の国では、水田で米作りが行なわれていました。この高天原の米作りの高い技術を国中に普及させることが天照大神の教えであります。神武天皇のご東征は、この水田の技術を各地の人々に教えながら進まれた」と述べていますが、狩猟採集の不安定な生活から稲作による安定した生活を広められたのが天皇であられたのです。
 いかに日本人が神武建国の偉大さに心を寄せていたかについても、保田氏は次のように述べています。
「国家に一大事という時、危機再建の日に、建国の大事業を回想するということは、興隆の原動力です。わが国の過去の歴史を見ましても、万葉集の時代から、国の重大な危機には、神武天皇建国の日を思って、更正の活力を、自他の心にふるい起こしました。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は壬申の乱といわれる、わが国未曾有の危機の日に、神武天皇建国の史実を歌いあげることによって、自他の心に、永遠の信実を強調しました。万葉集を作られた大伴家持(おおとものやかもち)は、一族の若者を教える時は、神武天皇の橿原宮の回想からせよと言いました。
 江戸幕府の末期、国際情勢からも日本を強国にせねばならぬと考えた時、学者や有識人は神武天皇建国のご事蹟を思い出して、復古の思想をとなえたのです。」(以上、保田與重郎作『神武天皇』〈こころの文庫〉より)
 明治維新は正に「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ」(王政復古の大号令)成就されたのでした。
 明治の歌人、正岡子規は、次のように神武建国の日の喜びを歌に詠んでいます。
 紀元節の梅(明治三十三年、五首より三首)
 とほつみおやすめらの神が御位に即 かす日かしこみ梅いけにけり

※『日本の息吹』19年2月号より。お申し込みはこちらから