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外交─日本とアジア・欧米

東京裁判判事パール博士を語る

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東京裁判で唯一、日本の無罪を主張したパール判事。
その姿は、日印両国の絆となってきた。

駐日インド大使アフターブ・セット氏


■日本国民からの感謝の手紙
私は、森首相(当時)がインドに訪問した一ヶ月後の、二〇〇〇年の九月に駐日大使として来日しました。赴任後、栃木県の七十二歳の男性から一通のお手紙を戴きました。その内容をご紹介致します。
「この数年、私は非常に暗い心境でいました。貴国に対して、日本外務省が何となく友好的でない態度を示していたからです。私は貴国が長い間、他の国にはない深い理解を持って日本を見てくれていたことを知っています。極東軍事裁判で戦争指導者の無罪を主張してくれた唯一の判事が、インドの判事であったことを、私は決して忘れません。『他国に先駆けて、単独で講和条約を結んでくれたのがインドであることを忘れるな』と言う人もいます。私は日本国民に『元気を出せ』と象を送ってくれたネルー首相の温かい気持ちを忘れていません。日本国民が戦争の苦しみから抜け出して来られたのは、インド国民の温かい励ましと友情があったからではないでしょうか」。

これは如何にインドを純粋な気持ちで愛し、感謝しているのかを示す重要な書簡です。この年代の方々は敗戦後、苦悩していた日本に象を贈呈してくれたネルー首相やインド国民の友情を覚えています。極東軍事裁判についても触れていますが、戦争を体験した方々は、唯一日本の無罪を主張したパール判事を忘れていません。そして若い世代が、それを忘れてしまうことを憂いています。

■パール判事の日本無罪論
東京裁判は一九四六年五月に開廷し、一九四八年四月十六日に結審を迎えました。十一カ国から一名ずつ任命された判事のうちアジア人の判事は三名で、裁判長はオーストリアのウェッブ判事でした。ただ一人、日本は無罪であると主張したのが国際法の専門家であるパール判事でした。東條英機を始めとして二十八人がA級戦犯とされましたが、パール判事は提出された証拠や審議の方法を吟味した上で「絞首刑は適当ではない。東條が裁かれるならば、同様にアメリカのトルーマン
大統領も裁かれるべきである」と他の判事の意見に反対したのです。「原爆投下は戦争犯罪であり、長崎と広島に原爆を投下した責任者であるトルーマン大統領が裁かれないのは不公平である」と訴えたのです。

またパール判事は当時、ソ連の国家元首であったスターリンに対しても同様の見方をしていました。日本が降伏をする僅か一週間前の八月九日、広島と長崎に原爆が投下されて、日本の降伏が時間の問題であることを知っていながら、敢えてソ連は日本との不可侵条約を無視して北方領土に侵攻し占領しました。パール判事は「ソ連の行為は国際法に反する」と考えたのでした。

さらにパール判事は東京裁判そのものにも疑問を投げかけます。国際法において戦勝国が敗戦国を裁き、判決を下したのは、ヨーロッパではドイツのニュルンベルグ裁判、アジアでは東京裁判が史上初のケースでした。東京裁判では判事、検事の全員が連合国側の人間でした。歴史的に見ると、一八一四年にナポレオンがロシア等の国に破れた時も、ワーテルローの戦いに敗れた時も戦勝国はナポレオンを死刑にはせずに流罪に処しています。

第一次世界大戦は一九一八年にドイツの敗北で幕を閉じますが、この時でさえ戦勝国側は、多くの主戦論者が「カイザーを吊せ!」と叫んだにも拘わらず、ドイツ皇帝ウイリアムを死刑にはしていません。しかし東京裁判では戦勝国のみ裁く側に廻り、敗戦国の日本からは一人も判事を出させませんでした。その結果、一九四八年十一月の判決では裁判の途中で死亡、あるいは病気になった三名を除いて被告全員に有罪が言い渡されました。絞首刑が七人、終身禁錮刑が十六人、有期禁錮刑が二人でした。

またパール判事は、証拠の取扱い方についても疑念を呈しています。「法において最も大切なことは予見性の概念である」と述べています。適法か否かを予め承知した上で一線を踏み越えた時に、はじめて違法となるということです。東京裁判は過去の戦時下の行為を、現時点の法解釈をもって裁きました。「これは受け容れられるものではない」とパール判事は述べています。

パール判事は、戦争時の犯罪を認めながらも、提出された根拠を子細に吟味すれば「出廷した九人の被告たちと戦争犯罪という起訴事実を直接結びつける証拠はどこにも無い」と述べています。これが博士の「無罪論」だったのです。そして博士は「南京虐殺や慰安婦の強制連行を日本政府が国策として行った証拠もない」と述べ、被告のうちの三人が悲惨な事態を未然に防ごうと努力したことにも言及し「彼らをなぜ有罪にできるのか?」と問いかけました。

戦勝国の判事は、イギリスの植民地であるインドの判事がこのような発言をするとは予想していませんでした。しかし日本人の心には、正義、公正、高潔さに満ちたパール判事の言葉が深く響きました。日本人はパール博士の言葉により自信と誇りを取り戻したのです。

当時、マハトマ・ガンディーの指導下にあったインドでは、多数の国民がパール判事を支持しました。インド国民はイギリスの植民地支配に対して非暴力と不服従で独立を勝ち取ったガンディーの姿とパール判事を重ね合わせたのです。判事は文明国における死刑判決は「多数決ではなく、全員一致で下すべきだ」と主張しました。戦時中の犯罪については国際法の国家免責の概念に従い、直接関与した当事者のみが裁かれるべきだと考えました。例えば「一人の警察官が起こした不祥事の責任を、総理大臣が負う」ことはありません。こうした国際法の基本的概念の適用についても疑念を抱いていました。

博士の判決に影響した要因は他にもあります。中国との開戦後、一九三一年以降、アメリカが中国支援のために、原油やスクラップの輸出禁止などの制裁を日本に課し、さらにハルノートを突きつけました。日本がこれを脅しと捉えて、追いつめられたことは容易に想像できます。このような歴史的な背景も含めて、裁判の在り方に疑問を抱いたのです。

■日印の絆を強めたパール判事
パール判事の見解は、日本が独立を回復した一九五二年、『真理の裁き』というタイトルで出版されます。当時、平凡社の下中弥三郎社長が全国に普及し、博士と深い友情を結びました。箱根のパール下中記念館には、二人を記念した展示があります。

私が初めて来日した一九六〇年は既に東京裁判が終了して十年以上が経っていましたが、慶應義塾大学の友人たちは、口を揃えてインドから来た十九歳の留学生の私に、パール判事の話をしてくれました。きっと、敗戦直後、パール判事から自信を与えられた親の世代からいろいろと聞いていたのでしょう。日印にとって、パール博士の姿は極めて重要なものとなりました。平和を愛し公正を旨とするインド国民の象徴となったのです。日本人は文明的に中国に近いと思っているかもしれません。中国文明は母なる文明で、韓国、日本、ベトナム等に影響を与えていることに間違いはありません。しかし、パール判事やネルー首相の象の姿は、日印を深くメンタルな絆で結びました。最後に紹介する山口誓子の俳句にはそのことが詠まれています。

凧の糸天には見えず指に見ゆ

ありがとうございました。