時:平成15年1月26日
所:東京・砂防会館大ホール
●パネリスト
中西 輝政(京都大学教授)
長谷川三千子(埼玉大学教授)
小川義男(狭山ヶ丘高校校長)
石川水穂(産経新聞論説委員)
●司会
高橋史朗(明星大学教授)
「国家戦略としての教育改革」
中西 輝政 京都大学教授
中西 教育改革とは何かについて、文部科学省の中央教育審議会のパンフレットは「国家戦略としての教育改革」という項目をあげています。国の新たな出発を考えるときに、教育改革が重要な意味を持つという意識が生まれつつあることは好ましく思いますが、そもそも教育基本法は、アメリカの国家戦略として日本国憲法とセットで、昭和二十年の秋から動き出しているのです。近年では、歴史教科書について近隣諸国、とりわけ中国からの内政干渉を受けています。教育は国家が生きていく上で非常に戦略性のあるもので、自らの国の立場をしっかりと立てていなければ、存在が脅かされるような干渉をも受けてしまうのです。
教育基本法の改正を考えることは、国として国家戦略、国家目標の観点から非常に重要な歴史的な選択であります。九十年代以降、バブルが崩壊して以来、日本社会は不調な状況が続いておりますが、どの国もその時代を代表する経済大国になると、一時的な衰退期に直面します。その意味で今の日本の現状は悲観することではなく、問題はどのようにしたらこの状態から抜け出せるのかを、国民が意識することなのです。
国がこのような状態になったとき四つぐらいの共通した現象に直面します。第一は、少子高齢化社会が到来したことに大変な危機感をいだき、悲観論が生まれてきます。二番目に財政構造が一旦大きく破綻します。三番目に、内閣が何度も交替して国家意志が決定できないなど民主主義の政治が大変に流動化します。四番目に、必ず国民精神の崩れが起こり、エリート層、指導者層の使命感の問題、若い世代のモラル破壊現象などが危機感を呼びます。
このような時にはどの国でも、教育改革についての大論争が起きて来ました。一九八〇年代のイギリスやアメリカでは「教育改革こそ危機に立つ国家再生の最大案件」として、教育改革を座標軸として、規制緩和や民営化などの経済政策に向かっていったのです。希薄化した国民意識や崩れた教育システムを立て直した国が、経済の競争力や外交政策の主体性を回復して、様々な改革に成功をしてい
る。
翻って戦後の日本は三つの点で大きくバランスを喪失してしまっています。第一に物と心のバランスで、物社会、カネ社会に転落してしまった。第二は進歩と伝統のバランス。第三は個人と共同体のバランスです。戦後の日本では個人のほうに完全にバランスが崩れていますが、根幹には先の戦争を巡る歴史観のズレがあります。
中教審の中間草案にある「郷土と国を愛する心」は教育の大切な柱ですが、他国では単に「愛すること」だけでは終わらない目標が謳われている。国家に誇りを持ち、国家の為に自己犠牲をも受け入れる何らかの理念を明記する必要があります。とりわけグローバル化時代の東アジアでは、欧米の識者などは「国家単位が再び必要になる時代だ」と指摘しております。この重さは教育を考えるときに決して揺るがせにできません。
さらに日本人にとって、国は道徳感覚や文化、伝統と非常に密接に結びついております。「自衛隊員が何の為に命を賭けるのか」を考えた時、郷土や国を愛することだけではすまない、国家というただならぬ重要性がそこにはあるということです。
「アメリカの国家戦略と教育基本法」
長谷川 三千子 埼玉大学教授
長谷川 そもそも教育基本法というものがなぜいるのかを考えてみたいと思います。私は教育というものは本質的に、前進と保守のバランスだと考えております。人間の社会はどんどん先へ進んでいくので、どうしても教育も前進せざるを得ない。しかし同時に教育は伝授するという本質からして、保守的な側面を絶対に欠かすことはできません。
これはどんな文化、国家であっても普遍的なものです。現代のように目まぐるしく教えられるべき内容が変わっていく時代には、教育の中で何が基本になるのかを、移りゆかない文字にしていくことがどうしても必要になる。その意味で教育基本法は必要だと考えます。
つぎに今ある基本法をどう変えなければならないのかという問題が出てまいります。中教審の中間報告は、なぜ基本法を見直すのかということについて非常に陥り易い間違いに陥っています。この中間報告は「教育基本法は施行以来五十五年間、一度も改正されていない為、現代の社会に必ずしも充分に対応しきれていない面も出てきています」だから改正すると言っています。これは教育の持つ進歩と保守のバランスについて全く考えていない。新しい時代になったから基本法も見直そうという姿勢では、基本法はできないのです。
しかもこの中間報告には一番肝心な、なぜ見直さなければならないのかが見事に抜けている。中西先生がおっしゃった通り、この教育基本法はアメリカの国家戦略に基づいてできあがっております。しかもその国家戦略は、アメリカの初期の対日政策で、この第一には「日本国が二度と再び米国及び世界の脅威とならないように」と挙げられている。これが教育基本法を作り上げている第一の国家戦略なのです。単に他国の国家戦略だというような、のんびりした話ではないのです。「日本が二度と国家として立ち上がって、自立することがないように」というのが、日本国憲法の基本精神なのです。
そして教育基本法の前文には、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して新しい日本の教育の基本を確立する為、この法律を制定する」と記してある。この教育基本法をそのままにしていくら「郷土を愛し」「国を愛し」、日本国民としての責任を身につけさせようと言っても、それは右手で持ち上げたものを、左手で払いのけているようなものにならざるを得ない。中間報告はこの前文をどう直すかについて「これからの教育の目標を実現する為、新しい教育基本法はどうあるべきかという視点で見直す必要があると考えます」と言っていますが、本当に見直すつもりがあるのだろうかと思います。
今の教育はひどくなっているとおっしゃる方は多いが、その根本をたどるのについ昨日や十年前の話をされている。私はそうではないと思うのです。日本の教育の木の根を重い石がしっかりと押さえて、五十年かけてじわじわと枯らしてきた。この重い石を取り除かなければならない。この重い石が教育基本法の全体の精神であると言って良い。この重い石を取り除くために、我々は是非立ち上がらなければならないと思います。
「悪用されてきた『第十条』」
小川 義男 狭山ヶ丘高校校長
小川 教育基本法は取りようによっては、全然どうにもならないものではないと思います。ただ、このままでは絶対に悪用されて、我が国の教育を進めていく上で非常な妨げになる決定的な悪条文があります。その条文、十条はこういうのです。「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を持って行われるべきものである。教育行政は、この自覚の下に、教育の目標を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」と。
この教育基本法十条を曲解する教育法学者の先生方と、教科書検定違憲訴訟を起こした家永三郎先生たちは「政治や自治体や国会というものが、教育の中身に口を出すこと自体が不当な支配だ」と言うわけです。行政機構は建物や黒板、教員の月給を出したりと、箱ものを作ればいいと言うわけです。さらには「この教育基本法十条に違反をするから、学校教育法に根拠を有する指導要領は法的拘束力はない」と言うのです。こうなると教育の中身を決定するのは全て教員だということになる。その為に例えば小樽の子供が大阪に転校したとする。もう掛け算の九九が終わっていたということになる訳です。
従って憲法二十六条の、教育の機会均等が貫けなくなる訳です。全国的に均質な教育を担保するためには学習指導要領というものが絶対に必要なんです。それでも駄目だというのは、これを主張する人々の思った通りの教育ができないからなのです。教育基本法十条を、彼らの解釈するままに好き勝手にやらせて、政府が全く関与できないと、例えば麻原彰晃が仮に教員免許をもって教壇に立って、オウム真理教の宣伝をしても、この禁圧ができないのです。
「不当な支配に服することなく」というのは民主的手続きを経て立法されている学習指導要領を無視して、自分たちの好きな教育をすることです。国立で行われたように、小学生を思想教育して校長を土下座させる。これを「不当な支配」と言うのです。やはり十条は悪用されにくいように、条文を変える必要がある。それから彼らは教育基本法準憲法論ということを言って「学校教育法は教基法の十条に違反するから無効である」などと言います。何の根拠もない論で、このような論は破砕していかなければならない。
もう一つ大きな問題としては、家庭と個人についてです。本来、個人主義というのは価値を個人の根源に置くという考えで、その総和としての社会や国家を軽視するものではありません。そして私たちは確固として個人主義の立場に立たねばならないと思います。戦
後、家庭科の思想を形作ってきた家政学は、「家」が封建的支配制度の残滓である発想が強くあり、家庭は個人の幸福のためにあることを異常なほど強調するのです。確かに家庭は個人の幸福の為にあると思いますが、それは父、子、孫、祖父が一緒になって、全生涯
を通じての幸せの拠り所が家庭でなければならない。そのために、お互いが少しずつ遠慮しあっていくような、公の教育を教育基本法の中に盛り込んでいかなければなりません。これが無い為に個人主義がおかしく誤解されているのだと思います。
彼らが十条を悪用してきたのは、日本における社会主義革命を達成するためです。その為には、軍隊はいらない。警察は弱い方がいい。親孝行はしなくていい。国会や政府など、国民の意思を体現している機関にはものを言わせない。これを押し進めてきたわけですが、社会主義は世界体制として崩壊致しました。またイデオロギーとしても破滅したわけです。もう落ち着いて子供の幸せを間に挟んだ話し合いができる筈の時代なのです。時代は変わったのだから、我々も、あなた方も考えを変えて教育基本法の問題に取り組んでいこうではないかと、呼びかけたい思います。
「地殻変動が起こり始めた」
石川 水穂 産経新聞論説委員
石川 文部科学省は今日の民間教育臨調の旗揚げを非常に歓迎しております。賛成しているという意味ではありません。教育基本法改正反対論というのは、それほど多くの国民が支持しているとは思えないのに、声だけは大きい。文部科学省は普通の国民は「教育改革をしなければ、戦後民主主義教育はだめだ」と思っているのではないかと捉えていたわけです。けれども声が聞こえてこない。
しかし民間教育臨調が声を挙げてくれたことで、声なき声が挙がってきた。これでバランスのとれた議論が起きると歓迎しているのです。私はずっと文部科学省の担当をしています関係で、中央教育審議会の議論、そしてその前の教育改革国民会議の議論の審議をウォッチして参りました。二年前に、その教育改革国民会議が「教育基本法改正を求める」との最終報告を出したとき、当時の町村文部大臣は「新しい基本法を書き下ろす心構えでやれ」と文部官僚に指示をした。しかしなかなかその指示通りには文部官僚は動かなかった。結局、完成しないまま平成十三年一月から中教審の審議が始まったのです。しかし、昨年十一月に発表された中間報告には「国を愛する心」、あるいは「伝統・文化の尊重」といった現行の基本法にはない重要な基本理念が入っていた。百点満点では無いが、かなりの点数をあげられるのではと思いました。
いくつか審議の過程を説明しますと、「愛国心」が「国を愛する心」に途中で変わったのは、中教審の委員から反対意見が出たからです。「戦前の全体主義や、誤ったナショナリズムの匂いがする。響きがある」と。こういう議論自体が情けないのですが、全体としては「愛国心」または「国を愛する心」を盛り込むことに賛成が多かった。
それから「男女共同参画社会」については、審議会では議論が一切行われておらず、問題提起もされておりません。このままでは「男女共同参画社会への寄与が必要である」との項目が入ってしまうということで、東京の公聴会で複数の方が懸念を表明されました。それで事務方もようやく気がついたのです。我々産経新聞は、現行の教育基本法について、どこの国でも通用する普遍的な教育理念は書かれているが、日本人としてのありようが何も書かれていないと主張しています。家族愛、郷土愛、愛国心が必要であること、GHQに削除された、伝統を尊重することや宗教的情操教育の涵養について復活する必要があることを繰り返し訴えて来ました。しかし今
回の中間報告には、それらが盛り込まれているような気がします。その意味で満点でなくとも、かなりの点数をあげられるのではないかということです。
ここ数年、教科書問題、国旗・国歌の問題、教育基本法改正の問題を取材しておりまして地殻変動が起こりつつあると感じております。拉致事件が明るみに出たこともまた、教育改革には大変な追い風となっていると思います。国家とか主権を考えざるをえない状況が生まれている。一つの大きなチャンスであると思いますので、更に声を大きくしていかなければならないと思います。
◎討論会
●「国際化」と「愛国心」
高橋 第一の論点は、教育基本法の前文を中心とした基本理念の見直しです。昨年末の中教審の中間報告に至るまでに「愛国心」が「国を愛する心」に修正されました。その理由は「国際化と矛盾する」「偏狭なナショナリズムに陥ってはいけない」という意見があったからです。グローバル化時代と言われる中で、日本人のアイデンティティーや愛国心をどう考えれば良いのでしょうか。
中西 一月二十二日に中央教育審議会で話をした時にいろいろな質問を受けました。その中の一つに、現行の教育基本法に「真理と平和の希求」や「世界全体を視野において普遍の理念を」という趣旨が書かれているのは、大変に良いことではないか。偏狭なナショナリズムを排した結果、今日の日本の繁栄があったという意見を向けてきたのです。この委員は、やはり「偏狭なナショナリズム」とか「かつての全体主義」ということを合い言葉のように言うのです。
国際社会の中で歴史の浅い国は、ある一つの経験を非常にバランスを失ったかたちで強く持ちすぎます。そして次の時代には、大局的な過ちを引き起こすのです。近代の国際社会を長く経験した先進国は皆、分かっているのです。日本はこれだけ知的にも発達して、世界との関係も密になっている国であるのに、残念ながら特に先の大戦のあった昭和のごく十年間ぐらいの経験を捉えて、全て思考停止になる。戦後日本が積み重ねてきた積極的な経験や、その中で成熟した民主主義の成果は全て無視をするのです。そしてまたすぐ全体主義にもどってしまう。いったい、そう考える人たちの日本の民主主義に対する信頼は、どれほどのものなのか。そんなに民主主義が信頼できないのならば、政治の場に参画するのはもう辞めたほうがいいと私は思います。
この問題についてはもう一点、今後非常に重大なことがございます。いろいろな国へ人が移動する時代でありますから、今後、日本社会も多文化社会の潮流に洗われていくと思います。いろいろな異なる文化を受け入れたり、多くの日本人も海外に出ていきます。その時に非常に大切なことは、文化についての座標軸をきちっとさせることなのです。「どんな文化も認めましょう。しかし主たる文化、我々の基本の座標はこういう伝統であり、文化である」と、これまで以上にはっきりとさせる必要があります。例えば靖國神社への参拝の問題や、あるいはお正月の総理以下閣僚の伊勢神宮への参拝などについてです。国として公的な儀礼が行われるときには、日本としては本来どのような形式が求められるのか、もっと座標軸をはっきりさせておく必要があるわけです。
国際社会で生きていこうとするときに、歴史の経験を相対化して、全体のバランスと成熟とをもって、民主主義の中で自己の本来の文化を選択していくのであれば、教育の基本理念を論ずる時に「偏狭なナショナリズム」や「かつての何々主義」という言葉は出て来ようもありません。そこには何らかの意図が潜んでいるか、怠慢があるのかの何れかであると言わざるを得ません。
●閉じられていく革新、開かれている保守
高橋 第五条の男女共学を巡る議論について「教育上、男女共学は認められなければならない」というのが現在の規定です。中間報告には「男女共同参画社会への寄与という視点から、新しい理念を盛り込む必要がある」とあります。いま問題となっているジェンダー・フリー教育の行き過ぎ、混乱に歯止めを掛けるためにはどのような教育基本法の改正が必要なのかご意見をいただきます。
長谷川 先ほど産経新聞の石川さんから、日教組の教育研修集会で産経新聞だけ平和教育の分科会から排除されたというお話がありました。それを聞いて「ああ、そこでもか」と感じました。日本中で「閉じられていく革新、開かれている保守」という構造が目立っています。この場が、開かれた保守のお手本になったらいいと思います。
さて私の奉職しております埼玉県では、全国に先駆けて男女共同参画の基本条例、基本計画を作って、そこに苦情処理機関を授けました。ここではたった三人の委員が苦情を受けて、その是非を判断して行動する。いわば非常に専制的な力を与えられた機関です。その苦情処理委員会が、埼玉県下の公立の男子校、女子校に対して「男女共同参画社会の基本理念に反している。直ちに共学化しなさい」という勧告を教育委員長に宛てて提出したのです。猛反対が起こって二十七万の反対署名が集まりました。さすがに教育委員長は「いま、この勧告は取り上げない」ということになったのです。しかし勧告は、そのまま生きております。これはまさに教育基本法の第十条の言う「不当な支配」なのです。
しかし、この十条はよく読めば曲解の余地はありません。「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」とありますが、国民全体に責任を負うことが、国家以外の誰にできるのでしょうか。しかし実際には、学者の中でもスコラ的議論があるようですので、やはりこの条文は議論の余地がない形にしなければならない。
先ほど、社会主義が破綻したというお話がありましたが、ただおとなしく破綻したのではありません。彼らは、いわば社会主義難民となってフェミニズムの世界に押し寄せております。これは自民党の中にも入り込んでおります。これと戦っていかなければならない
のが、教育改革の難しいところです。そのためにも是非、第五条と第十条が悪用されないように、しっかりとした条文に改正する事が大事だと思います。
もう一つ、何かと出てくる「偏狭なナショナリズム」という言葉についてですが、これは大きな誤解に基づいています。この言葉は、日本のナショナリズムが基軸にしている精神は何かと言うことを、全く知らない無知な人間が語る言葉なのです。個人の価値を極め
ていったら、国家と対立するというのは、アメリカ独立戦争やフランス革命の精神に過ぎません。個人の価値を探求していくと、そこから人類の価値に繋がるというのが、本当の日本の思想なのです。この日本の思想が把握されていないために「偏狭なナショナリズム」という話が出てくるのです。日本に関する限りナショナリズムというものは「開かれている」のです。まさに「開かれた保守」なんです。そのことに皆さんもぜひ自信を持って、心に銘記して頂きたいと思います。
●家庭教育を守るイデオロギーの形成を
高橋 一月十日付の日本教育新聞の一面で、教育基本法の改正についてのアンケートの結果が大きく報じられていましたが、教育の現場は改正を強く望んでおります。そして、教員や管理職の方が望む追加すべき内容として、学校と家庭の役割分担、責任を明確にして欲しいという声が非常に強いわけです。この点については、改正の中でどのように考えていけばよいのでしょうか。
小川 家庭教育に関して最近いろいろな人が「学校だけが悪いのではない。家庭にも責任がある」という言葉を軽々しく使います。私は昭和二十六年に中学校の代用教員になって、もう五十年現場にいますので、戦後教育のほとんどを現場で生きてきたのです。こういう言葉を聞くと「では家庭教育はちゃんとできるのだろうか」とムッとするんです。いま家庭教育が悪いと言われるけれども、昭和二十六年当時は、子供を高等学校にやってくれと親を説得しにいったら、「おらの娘を学校にやろうがやるまいが、お前になんの関係がある」と言って、水をぶっかけられたことがあります。娘を身売りして焼酎を飲んでいる親もいたわけです。長く教壇にいた私は、そんな親と比べて、いまの親のどこに文句がつけられるのかと思います。親が悪いのではなく、親に変な教育、イデオロギーを教えた学校が悪いのです。
戦後教育の中で、抵抗は美徳、服従は悪徳という価値観がもう定着しているでしょう。『泳げ!たいやき君』という歌が流行りましたが、「毎日、毎日、僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ。ある朝、僕は店のおじさんと、けんかして海に逃げ込んだのさ」と、こういう親や先生に抵抗するようなものには、何かハッとするわけです。テレビドラマにしても皆そうです。
敢えて誤解を恐れずに言いますが、教育においてその出発でまず大事なものは「服従の教育」なのです。ところがいまの現場では、小学校一年生から「先生だって嘘を言うかもしれないから、ちゃんと先生の言うことだって疑って」と教えるので、子供は何でも批判
的にならないといけない。しかし批判力というのは知識を豊富に吸収して、それが内面発酵して批判力として開花するのであって、それ自体を教えるものではないのです。この辺りを勘違いして、服従する教育、親の言葉に従う教育をしてこなかったから家庭教育は崩
壊したのです。村で一番のインテリである校長や先生方から「しかったらだめ。怒鳴ったらだめ。ぶったらだめ」と言われているうちに、父親の市民権はだんだん崩れていった。
そして、何もだめだとは言えず、娘が売春しても母親が「それは人間として絶対に許せない」とは言えずに「私は古いのかしら」と迷うようになった。それを厚生労働省が後押ししている。だから家庭教育の崩壊というのは、親でも家庭でもなく厚生労働省や文部科学省が先頭にたってイデオロギー的に破壊しているのです。
「日本の教育を悪くしたのは日教組」だと言う人がよくおりますが、日教組には教育を良くする力も悪くする力もないですよ。しっかりと服従すべき時には服従するという教育を確信をもって持ち込めなかった教育イデオロギーの形成者たちに問題があるのです。もっとも服従するといっても、いつまでも服従させるのではなくて、子供が大きくなっていけば親も教師も少しづつ後ろへ下がっていく。そして最後は「老いては子に従う」。家庭がしっかりやれるように、学校はイデオロギー的にその拠り所となるようにしなければならない。そのイデオロギーを形成するのが、ここに集った私たちのこれからの仕事になるのだと思います。
●地方分権と教育責任
高橋 先日、日本の教育改革を進める会より次のようなご意見を頂きました。「国民の教育行政に関する最終的な権限と責任は国にあることを明確にする。その執行については地方公共団体及び学校その他の教育団体も常にこれを分担する」と。国や都道府県の権限と責任というものをどのように考えたらよいでしょうか。
石川 地方分権ということがしきりに言われているが、これは行き過ぎると大変危険である。我々は新聞で、広島、小樽、所沢や国立など取材して参りましたが、これらの地域は、地方分権を許したら、過激な教師集団がやりたい放題になり、正に不当な支配となってしまう。だから国の教育権は一定程度は必要であると思います。先ほど小川先生がおっしゃたように、昔の文部科学省は非常に立派な哲学を持った方が多かったと聞いております。むしろ我々は、頼りのない面はあるけれども、文部科学省にハッパを掛けて、地方分権の行き過ぎを警戒していかなければならないと考えます。
教育─子供たちの未来を拓く教育改革を